瀧内公美さんが妖艶におどろおどろしく演じていますが、どんな女性だったかはあまり記録がありません。
頼宗、顕信、能信、寛子(小一条院女御)、尊子(源師房室)、長家という子どもがいましたが、どうも、倫子が産んだ子どもたちより、明子の産んだ子の方が出来が良かったようです。
それでも官職では、倫子のこの方が優遇されましたが、それを恨みに思った能信は後三条天皇の後ろ盾となり、養女の茂子を妃にし、その子が白河上皇となりました。つまり、摂関制の弱体化と院政のはじまりも倫子と明子の争いの延長線上にあったというわけです。
このほか、一条院も藤原詮子ゆかりです。一条南大宮東、つまり大内裏の北東の角と大宮通を挟んだ一町を占め、一条天皇の里内裏でした。
藤原詮子によって整備され、999年の内裏焼亡のときも里内裏として使われ、紫式部が彰子に初めて仕えたのはここでした。堀川に架かる一条戻橋の向かい側、晴明神社の少し南です。
一条大路の北側には、右近の馬場と左近の馬場があって競馬などを見物に貴族たちがでかけ、社交場であり男女の出会いの場でした。『源氏物語』にも登場する右近の馬場があったのは、北野天満宮と今出川通を挟んだ南側の一帯です。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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