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WRC日本車黄金時代を象徴する1台
WRカーの登場と、インプレッサWRCの2ドア化
WRC日本車黄金時代を象徴する1台
WRカーの登場と、インプレッサWRCの2ドア化
1973年に始まったWRCは、参戦するラリーカーが年々その過激さを増して市販車とかけ離れていき、フルタイム4WD+ターボエンジンが当たり前となる1980年代に入ると、12カ月でわずか200台のベース車を作ればよい過激な「グループB」マシンへ進化します。
しかし、表面上のスペックは過激でも、駆動システムやブレーキの制御が未熟だった時代にはあまりに無謀すぎた挑戦で、観客すら巻き込む重大事故が多発、1982年に始まったグループBは1986年にはWRCを追われ、さらに過激になるはずだったグループSも企画倒れ。
代わってWRCで主力になったのが、それまで二線級だった市販量販車ベースの「グループA」ですが、当初12カ月間に5,000台、1993年に緩和されて2,500台でよくなったとはいえ、それだけの数の高性能4WDターボ車を生産し、市販しなければなりません。
当時それが可能だったのはデルタをベースとしたイタリアのランチア、シエラやエスコートをベースにしたフォード、それに販売戦略上の要求もあって、やたらと4WDターボを作りたがった日本の各メーカーくらいでした。
それで当初はランチア デルタHF系の黄金時代、次いでトヨタ セリカGT-FOURやスバル インプレッサWRX、三菱 ランサーエボリューションと日本車黄金時代が訪れますが、日本車頼みで他国のメーカーも参戦しないと、いずれ国際イベントとしては廃れてしまいます。
そこで登場したのが、「12カ月に25,000台以上生産したクルマの派生車を2,500台作り、それをベースに各種改造可能」としたWRカー。
ワイドボディ化や4WD化、サスペンション形式の変更など改造可能範囲は多岐に渡りましたが、「とにかく参戦メーカーを増やそう」という意図でしたから、エンジン換装など特例も多く、目論見通りに参戦メーカーは増えていきます。
一方で既存メーカーも日本車ではスバルがいち早く対応し、4ドアセダンWRXベースのグループAマシンから、2ドアクーペのセクレタリーカー(通勤車)、インプレッサ リトナへとベース車を切り替えました。