「法の支配」の中核的要素:辺野古基地の埋立地工事の事案は法定受託事務
「法の支配」は「国家権力抑制」だけが目的ではないし、もともとの文脈では国民と公権力の関係なのだから、行政機関である沖縄県もまたここでいう「国家」の側だということが無視されています。
次に、地方自治は「法の支配」の一般的理念から直接導かれるものではないし、今回のは自治事務ではなく法定受託事務なわけで、県が好き勝手できる事業ではない。必ず法律・政令により事務処理が義務付けられます。
今回は、沖縄県知事の行為が、事務の根拠である法令に違反していると過去に判決が出ている最高裁=司法が判断している話。
法の支配の中核的要素とは、「一般的正義からの演繹ではなく、個別具体的正義を紛争の当事者間で確証していくこと」(by日笠完治) であり、そのような判断の積み重ね、歴史が法の支配が敷かれている状態ではないでしょうか。
法の支配は、国内法上は「人の支配」と対置されるものであり、ここでの「人」は国家権力(を司る役職者)だけでなく様々な主体の不公平・不平等な行為を含むもの。
沖縄タイムスは、裁判所に「法の支配・法治主義」の観点から県知事の不作為が真っ向から否定されて、ムキになってるんでしょう。
朝日新聞の気になる記述「環境への負荷」を公益と主張していた?判決文からは読み取れず蛇足ですが、朝日新聞の記事には気になるものがありました。
(社説)辺野古の代執行 自治の侵害を許すのか 2023年12月21日 5時00分 朝日新聞デジタル
県民の民意や環境への負荷など幅広く公益を考えるべきだという県側の主張に対しては、「心情は十分に理解できる」としつつも、法律論としては「当然に考慮しうるものとは言い難い」と退けた。
「環境への負荷」に相当する主張は、判決文において「心情は理解できる」として触れられた沖縄県の主張には、含まれていません。
被告である沖縄県の主張の項を見ても、「環境への負荷」に相当する主張は、判決文のレベルでは書かれていません。
訴訟においては、原被告が主張した内容の全てが判決文上の記述に反映されないケースもあり、被告が本当に「環境への負荷」に相当する主張をしていたかはわかりません。
しかし、少なくとも判決文のレベル(判決要旨も含む)では「環境への負荷を公益として考えるべきだという県側の主張」は出てこないし、それに対する裁判所の判断として「心情は十分に理解できる」としているという事実はありません。
なお、「生活環境」という意味では、既に判決文で考慮されたものとして「騒音被害」がありますが、それは住民の生命身体の危険(の除去)という意味の公益に関連して扱われており、「環境負荷」という人を介在させないと思われる概念として扱われてはいません。
編集部より:この記事は、Nathan(ねーさん)氏のブログ「事実を整える」 2023年12月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「事実を整える」をご覧ください。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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