皆さんこんにちは、たびこふれライターのえいたです。
神奈川県横浜市にある三渓園(さんけいえん)に行ってきました。
今回は、外国人による視察旅行のお供で訪れました。私の中で三渓園は神奈川県の紅葉の名所くらいの認識しかありませんでしたが、百聞は一見に如かず、ここは外国人はもちろん、日本人にもぜひおすすめしたい場所だと思いました。
さて、その理由とは・・・
三渓園はこんな庭園
横浜というと、山下公園や赤レンガ倉庫に中華街、みなとみらい地区などを思い浮かべる方が多いかと思います。三渓園は本牧エリアにある17.5haという東京ドーム4個分の広大な敷地に明治時代の実業家・原三溪によって寺や古民家など歴史的建造物を日本各地から移築し造られた日本庭園です。
周囲が住宅街や工場地帯なのに三渓園の正門をくぐると、大池のあたりからほとんど庭園以外の人工物が視界に入ってこないことに驚きました。目に入るのは美しい日本庭園と古民家や寺など日本各地から移築されたレトロな建築物だけで、まるで映画のセットにでもいるような感覚です。
それぞれの建築物の歴史や所有者を知るにつけ、とんでもないコレクションに触れていることへの興奮を覚えずにはいられませんでした。
正門から入って大池を右周りに進んでゆくと右手に最初に見えてくる建物です。
1902年(明治35年)に原三溪が自らの住まいとして建てられました。
三溪園にある歴史的建造物の中でも大きい建造物で、鶴が飛翔するような外観に由来するといわれています。
江戸時代はじめの1649(慶安2)年に、現在の和歌山県岩出市の紀ノ川沿いに建てられた紀州徳川家の別荘「巌出御殿」を移築した建物です。この臨春閣をもって三渓園が東の桂離宮といわれているようです。
1591(天正19)年に、豊臣秀吉が病気から快復した母・大政所の長寿を祈って建てた生前墓の寿塔を覆っていた建物です。
歴史上の人物縁の建物なんてロマンを感じます。
聴秋閣は移築前「三笠閣」と呼ばれ、「徳川家光の上洛に際し、1623(元和年)年に二条城内に建てられ、のちに家光の乳母であった春日局に与えられた」と嫁ぎ先の稲葉家の江戸屋敷に伝えられたものです。
竹林にひっそり佇む建物は、織田信長の弟・織田有楽の作とされる江戸時代初めごろの茶室です。
室町時代の1457(康正3)年に建てられた園内の建造物の中で最も古い建物だそうです。1914(大正3)年に、現在の京都・木津川市の燈明寺から三溪園へ移築されました。
臨春閣や聴秋閣といった建物の室内から、三重塔が美しく眺められるよう配置を工夫しているそうです。
飛騨白川郷のダム建設の水没地域にあった入母屋合掌造りの民家です。
こちらは内部を見学できるので中に入って見学してきました。
ところで、三渓園が開園した明治39(1906)年当時は、欧米列強に追い付けと西洋文化が推奨され旧来の日本文化は軽視されていました。国家による「神仏分離令」や神道の奨励が「廃仏毀釈」など仏教文化自体を否定する流れを生じさせていました。特に江戸時代に大きな権力を持っていた大名・武士階級の凋落は、彼らが支えていた寺院を衰退させて多くが廃寺となってしまった時代でした。
このように歴史的・芸術的に価値の高いものが顧みられることなく失われてしまっていった時代に、原三溪は伝統ある文化・歴史の遺産を大切に守り後世に継ぐことを個人の力で展開しました。
おそらく原三溪がいなかったら、三渓園にある建物たちは破壊されて影も残っていなかったでしょう。
これだけの規模の庭園を個人の財力で作り上げた事は本当に素晴らしいことだと思いました。
こうした建築様式や文化は残ったものは後世に評価されることが多い中で、原三渓には先見の明があったことがよくわかりました。
三渓園を外国人と散策する
今回ご一緒しました方々はヨーロッパの国々からいらっしゃっいました。
彼らは、日本文化や食などに興味を持って視察をされていました。ヨーロッパの建築物は石造りが多く、日本では木造建築が多いのは皆さんもご存じかと思いますが、
『なぜ、木造建築が多いの?』
「日本の国土の多くは森林だったから、日本の気候が木造建築に適していたから。」
こうしたやりとりがガイドと参加者の間で繰り返されていました。