日本車の発展に多大な影響を与えた「国民車構想」
1955年(昭和30年)5月、経済紙のスクープ記事によって明らかとなった、通産省(現・経済産業省)による国民車育成要綱案、通称「国民車構想」。
実際には1953年あたりから同省自動車課の若手課員によって素案が作られていたとも言いますが、初代クラウンすら発売されるかどうか、高速道路など見たこともないという時代の日本で、「性能のいいファミリーカーを安く売ろう!」というのがどだい無理な話です。
時代を考えれば、「また役人が余計な事を考えて」と言いたくなるところですが、実は自動車メーカー側もそれに近い事は考えており、むしろ我が意を得たりとばかりに国産乗用車の開発は加速します。
やがて技術の進歩と国民の所得増加がいい感じにバランスを取れた時、日本でもついに「国民車」が生まれるわけですが…今回はその初期の3台を紹介します。
ヒコーキ屋の作った「国民車第1号」、スバル 360(1958年)
戦時中まで日本最大級の航空機メーカーだった中島飛行機が戦後に進駐軍によって解体、工場ごとの中小メーカーとして再編を図った数社のうち、5社が集まって「富士重工業」、現在の「SUBARU」を結成したのは1955年。
それ以前からスクーターの「ラビット」も作ったり、自動車メーカーとしてもスバル1500(P-1)を開発、しかしエンジンを作った富士精密(これも旧中島系)は後にプリンスと合併するブリジストン系のメーカーで、これ以上のエンジン供給は受けられません。
その後は独自のエンジンで開発を継続するも、後発の新興メーカーがトヨタや日産に太刀打ちできるか先行きは暗く、そこに降って湧いたのが「国民車構想」です。
航空機の開発技術とスバル1500の経験による軽量フルモノコック構造に、ラビットの経験を活かした小型高出力エンジンを載せる軽自動車を作れば、自分たちこそが初の「国民車メーカー」になれるのでは?
こうして1958年に発表されたスバル360は、小排気量ゆえに絶対的な性能では割り切ったのを除くと十分に実用性があり、「日本初の国民車」としての資格を得て1970年までのロングセラーになり、戦後初期の国産車における「名車」となりました。