琵琶湖のほとり東岸、長浜市に位置する長浜城跡。長浜城は豊臣秀吉によって建てられた城ですが、現在はその存在はありません。戦国時代、数々の戦で舞台となったこの場所は、長浜城歴史博物館に姿を変えて、現代の人々にその歴史を語り継ぐ役割を担っています。長浜城はどのようにして建てられたのか、どんな歴史を見守ってきたのか、現代に至るまでの経緯をご紹介します。

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

目次
1. 長浜城の歴史
2. 長浜城歴史博物館で歴史を探ろう!

1. 長浜城の歴史

長浜城の歴史について説明していきます。

1.1 憧れの織田信長に裏切られた小谷城の城主、浅井長政

浅井長政(あさい ながまさ)という戦国大名は、長浜城ができるまでの時代に活躍した人物です。天文14年(1545年)に現在の滋賀県近江八幡市で生まれた長政は、鎌倉時代から戦国時代にかけて近江国の南部を支配していた、六角氏(ろっかくし)という守護大名の支配下にありました。しかし長政が16才の頃、臣従関係だった六角氏と対立。初陣の長政が見事勝利し、六角氏を下しました。

1.2 織田信長と浅井長政が同盟を結ぶ

その噂を聞きつけた織田信長は、浅井長政と「同盟を組もう」と話を持ちかけました。信長に憧れていた長政にとっては良い話でしたが、長政が以前から友好関係にあった越前国の戦国大名、朝倉義景(あさくら よしかげ)と信長は不仲でした。そこで長政は、「朝倉氏に戦を仕掛けない」という条件を出し、織田信長と同盟関係を結ぶことにしました。信長は自らの妹である「お市」を人質として、長政の妻にしました。その二人の間に生まれたのが、後に豊臣秀吉の側室となる「茶々(淀殿)」だったのです。

1.3 恐れていた信長と長政の対立

しかし、信長は長政との約束を破り、朝倉氏へ戦を仕掛けてしまいました。この動きに長政も反発。やがて信長と長政も対立していきます。長政は名前の一文字を信長の「長」から取るほど信長に憧れていたということですから、対立は不本意だったことでしょう。その後長政は、信長と敵対している朝倉義景とともに戦略を練り、信長を挟み撃ちにしようと考えていましたが、その企てが事前に漏れてしまい、作戦は失敗に終わりました。

天正元年(1573年)、信長は遂に朝倉氏を滅ぼし、その足で長政のいた小谷城にも攻め込みました。浅井家三代目にして戦国大名にまでのぼりつめた長政でしたが、29才の若さで自害し、三代続いた浅井氏は滅亡しました。その頃、横山城を守っていた木下藤吉郎(きのした とうきちろう)、後の豊臣秀吉は、小谷城が落城する際にお市と三人の娘を救出したのです。

朝倉氏の打倒に貢献した秀吉はその功績を称えられ、浅井長政の旧領のうち、12万石の領地が与えられました。その際に名を羽柴秀吉(はしばひでよし)とし、戦国大名として出世していくのです。

小谷城と長浜城は12キロ程しか離れていませんが、琵琶湖からは少し距離があり、交通の便が悪かったことから、秀吉は現在の長浜市である「今浜」に城を作り始めます。築城の際に竹生島から材木を運んできたこと、領地の住民を集めてきた事などは古文書に残っていますが、長浜城の設計図や絵図面などは残っておらず、多くは謎に包まれたままです。ただし、長浜城内から水門を通って琵琶湖へ船が出せるようになっていたことだけは、記録に残っているのだそうです。

1.4 秀吉の長浜城が完成

天正3年、遂に秀吉の城が完成し、地名を「今浜」から「長浜」に改名しました。

秀吉はそれまで居た小谷城から長浜城へ移り住み、城持ちの武将となったのです。本能寺の変で信長が敗れた後、長浜城は一時的に柴田勝家(しばたかついえ)の甥、勝豊(かつとよ)が城主となりましたが、その後再び秀吉の手に戻ります。

豊臣氏が滅亡し、江戸時代になってからは、徳川家康の家臣であった内藤信成(ないとう のぶなり)が城主となりました。その後、息子の信正が城主になってからは領地を「摂津国(せっつこく)」に移すこととなり、長浜城は取り壊されて廃城となりました。この時に残った石垣などの多くが彦根城建設の際、材料として使われたのだそうで、彦根城の大通寺台所門・知善院表門・彦根城天秤櫓(てんびんやぐら)は、長浜城から移築したものだと言われています。

2. 長浜城歴史博物館で歴史を探ろう!

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

では、実際に長浜城歴史博物館へ行ってみましょう。コンパクトで落ち着いた雰囲気の長浜駅からスタートです。長浜城は長浜駅から歩いて7分ほどの距離ですので、アクセスは抜群です。

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

車で行く場合は、広い駐車場もあります。普通車は3時間まで無料です。

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

案内板に従って進んでいくと長浜城跡歴史博物館の説明書きがあります。

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

説明書きによりますと、構造は鉄筋コンクリート造り、面積は1,836平方メートル、総高33.9メートルで、昭和58年の4月5日に開館したのだとか。

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

更に進むと、階段の先に天守閣を再現した「長浜城歴史博物館」が見えてきます。

(1階)グッズ、チケットを購入できる

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

博物館入り口には、日本史好きにはたまらないおもしろいグッズがたくさん!チケットもここで購入できます。
入館料は大人400円、小中学生が200円。長浜市内・米原市内の小・中学生は無料で入館できるそうです。

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

滋賀や長浜城、ゆかりのある人物に関する資料がずらりと並んでいて、実際に購入することもできます。

2階:湖北、長浜のあゆみを紹介

2階へ進むと、湖北・長浜の歴史と文化が紹介されています。定期的に展示替えが行われていて、毎回違った見方で歴史を学ぶことができます。今回は、「近江宮川藩と歴代藩主たち」が紹介されていました。

(3階)秀吉と長浜の歴史を紹介

3階は秀吉と長浜がテーマ。階段を上がってすぐの場所に、長浜城築城中のミニチュア模型が展示されています。作業をする人や監視役、細かい動きなどが詳細に表現されており、機械も何もなかった当時において、手作業の大変さがよく伝わってきます。色々な資料が展示されている中で、特におもしろいと感じたのが「秀吉の履歴書」。スペースが足りないぐらいびっしり書かれた経歴は、さすが歴史に名を残す人物・豊臣秀吉だと、改めてそのすごさを感じられます。

※4階の茶室は講演会、講習会用の有料施設

(5階)戦国パノラマ展望台

5階への階段を上がると、滋賀を一望できる展望台があります。

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

天気が良ければ、石田三成の出生地(石田町)や伊吹山、横山城址なども見られます。

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)
滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

こちらは琵琶湖側の眺めです。何度見ても湖とは思えないほどの広さに圧倒されます。秀吉も同じように、この美しい琵琶湖を眺めていたのでしょうか。

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

博物館正面入り口を上から見下ろした景色です。

滋賀県の長浜城跡とは? 太閤・豊臣秀吉が建てた初の城の魅力に迫る
(画像=『たびこふれ』より引用)

お城の周りを散策してみました。こちらは長浜城本丸跡で、大きな石と松の木もあります。