「また始まった」最近の朝日新聞の政治面を見ていてそう感じる。時の政権が支持率を落として揺らぎ始めると、「筆圧がかかってペンがしなる」感じ。「(支持率)危険水域」の見出しを早く打ちたい・・・紙面を作る人たちのアドレナリンが分泌されている様が目に見える気がする。

朝日新聞社

私は以前から、そういう紙面に違和感を覚えてきた。いまの岸田政権のグダグダぶりを見ていると、こき下ろされても仕方ない。けれども、政権批判のペンがしなって、アドレナリンが出るのは、自分たちマスコミ人が「政局の一翼を担うプレイヤー」のつもりでいるからではないのか。

その傾向がひときわ強いのが、マスコミ界でいちばんのエリートを自認している(ようにみえる)朝日新聞だというのも故無きことではないと思う。お江戸で火事を知らせる半鐘を聞いた火消しじゃないが、「アンガージュマン(engagement)」せずにはおられないのかもしれないがw。

「それは違うだろ」というのが私の違和感の出所だ。

第一に、プレイヤーのポジションを取ると、己が採ったポジションに左右されて客観的な観察者、批評者ではいられなくなる。それは「(権力の)ウォッチドッグ」というメディアの本分との間で齟齬を来すのではないか。

米国でもメディアが時の政権に引導を渡して、結果的にプレイヤーの役割を果たしたことはある。ニクソン政権のウォーターゲート・スキャンダルを暴いたワシントンポストはその好例だ。しかし、それはあくまでも報道を通じて、であり、世論のムードを煽って、のことではない。

プレイヤーになると、恨みも買う。朝日新聞は第2次安倍政権から目の敵にされたが、安倍総理にしてみれば「第1次政権時代にいじめられた復讐」だったのではないか。政権を批判されたこと自体というより、「あとちょっとで退陣に追い込める」とばかり、ペンがしなっていたことを根に持たれたのではないか。

第二は、今はもうマスコミが政治の一翼を担うプレイヤーでありえる時代ではないということだ。発行部数が今の倍以上あって、文字どおり「社会の木鐸」でありえた4、50年前のような社会的影響力は既に失われている。