経国には、愛妾とされる章亜若との間で42年に生まれた双子の孝厳(元外務部長)と孝慈がおり、台北市長で国民党のホープである蒋萬安(78年~)は孝厳の子だ。が、今回「日記」と共に返還された「蒋経国日記」には、この双子が経国の部下王継春と章亜若との子と記されている。婚外子の孝厳は02年まで章孝厳と称していたが、萬安も章を名乗るべき、との声も出ているという。(「三立新聞網」)
台湾メディア「New Bloom」に拠れば、介石が経国に遺した文書類は三男の孝勇が継ぎ、その妻智怡が04年にフーバー研がそれを50年間保管する契約を結んだ。13年には智怡ら遺族3名が「総統・副総統記録・遺物法」に基づき文書類を台湾国史館に移管する契約に署名した(蒋方智怡とは妙な名だが、夫婦別姓の台湾では妻の姓名を夫の姓に続ける場合があるので旧姓は方智怡だ。同様に蒋蔡惠媚も蔡家の惠媚であろう)。
ところが、経国の長男孝文の長女友梅を含む別の遺族がこれらに異議を唱えたため、フーバー研は文書類の法的所有者を決定するための相互抗告訴訟をサンノゼの裁判所に起こした。ここからは「中央社サンフランシスコ」の記事に拠るが、友梅が日記は国史館ではなく遺族が保管すべきだと主張して所有権に疑問が生じたため、フーバー研が13年9月に民事訴訟を提起した。
これに続いて国史館も15年11月、台北で所有権確認の訴訟を起こした。その結果、台北地方裁判所は20年、介石と経国の総統任期中に係る日記を含む文書類は、文化的遺物として国の管理とする一方、総統時代のものではない文書類は遺族が共同所有するとの判決が下された。台湾の二審も22年に原判決を支持し、サンノゼの裁判所も台湾の判決を承認した。
香港紙「サウスチャイナモーニングポスト」には、智怡が他の遺族の同意を得ずにフーバー研と契約したとあり、また国史館は当初、16人の遺族を相手に台湾地方裁判所に訴訟を起こしたが、後にこのうちの9人と和解したと書いている。9人とは先述の9人だろうが、後の7人は誰かが気になる。
経国と方良との子と孫はこの9人がすべてなので、残るは汪長詩、経国と章亜若の双子孝慈と孝厳とその妻黄美倫、その子の蕙蘭と蕙筠、そして萬安とその妻石舫亘ら8人のうちの7人だろうか。何れにせよ同記事は、家族の所有権を主張した遺族らも、5月に署名した友梅を最後に、全員がその所有権を国史館に譲渡することに同意したと報じている。
さて、10月31日に出版された「日記」は48年から54年までの分で、介石が中華民国の初代総統に就任した48年と、翌49年12月に国共内戦で敗れて成都から台湾へ到着した時期を含む。来年3月には国史館の検索システムで目次検索と画像閲覧を提供し、以降は順次6年分ずつ公開する。「蒋経国日記」についても、70年から79年までの分を本年末に出版するという(「台北中央社」)。
最後に「日記」の中身に触れれば、家近本も鹿本も先の大戦中までの研究であり、かつ筆者が知りたい西安事件・盧溝橋事件とコミンテルンの関係や南京大虐殺などに関する介石の直截な記述が「日記」にあるとは書かれていない。第一級の史料には違いないが、二人が論じる介石の外交戦略や国際戦略がひっくり返る新事実は出てこないように思う。
むしろ筆者は、研究の進んでいる「日記」よりも「蒋経国日記」に惹かれる。戒厳令の解除や李登輝の副総統抜擢などをどう書いているのだろうかと。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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