話しても分からない人
翻ってこちらは上記の真逆なタイプである。
・話したことはすべて相手に伝えられると思っている ・熱意を持って時間をかけて話せば全部伝わる ・コミュニケーションは技術より熱意 ・相手を理解しようとする姿勢が欠けている ・お互いの価値観などは重要なので全て分かり合うべき
主にこうした感覚の持ち主が多いと感じる。
ここで重要なのは「分かり合う」のが難しいのであって「分かる」ことはあり得る。たとえばコミュニケーション能力に長けた側は相手の言わんとしていることは理解できても、そうでない側は論理的な反論やそもそも反論を受け入れないという構図があり得る。だがコミュニケーションとは一方的に成立するものではなく、相互理解を目指すゲームであるため、片方だけ理解できてもダメなのだ。
よくある具体例で言えば、夫婦の関係において夫は仕事にコミットして家事育児をせず、妻が参画を促して喧嘩をするという光景だ。夫は「仕事が忙しくてそれをするだけの時間や体力がない」と主張するし、妻は「こちらもパートとはいえ働いている中で頑張っている。育児は協力するという話ではなかったのか」と主張する。お互いに自分の主張を相手に伝えようと一歩も譲らない。
この場合について言えば0-100の二元論ではなく、お互いに譲歩可能な部分を探るアプローチが良いだろう。夫は妻が考えるような全面協力は難しいが、仕事が忙しくてもできる範囲で頑張ってみるのである。たとえば平日は難しくても土日は夫が子供を公園に連れ出したり料理をするなど、妻の手を完全に空ける配慮をする。このように1つずつタスクの実現可能性を試してみる。結果、持続可能、不可能なタスクが見えてくるので、それを話し合って採否を決めていくイメージだ。
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「1を聞いて10を知る」ということわざは人間関係の相互理解の文脈上は間違いと考える。「1を伝えたんだから10理解できるでしょ」というのはコミュニケーション努力を放棄した傲慢な態度といえる。「10を聞いてを1を知る」こそが正しい解釈である。「言葉や表現、技術を尽くしてそれでも伝わるのは1しかない。さらに努力して3や4に引き上げよう」という姿勢が結果として話をすれば分かる人になるのではないだろうか。
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