2000年代の始めのころ、「千の風になって」という歌が話題となった。出だしの歌詞は「私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」だった。

私たちが死後どうなるかは人それぞれ考え方が異なるが、人間が肉体の消滅後も何らかの(目に見えない)状態で存在し続けるとしても、仏教もキリスト教もヒンドゥー教も「それ」が墓の下にある骨の中に留まったり宿ったりするとは教えていない。これを考えても、やはり従来型のお墓に拘る必要はないのではないか。

親が死んだらお墓を建てて、その前で手を合わせたい・手を合わせる何か(形になっている)対象物が欲しいという人はそれでも別によいと思うけれども、「お墓がなくちゃ駄目だ」みたいに考えなくてもいいと私は思っている。故人はきっと――何処よりも――人の心の中で生き続けるのだから。

田尻 潤子 翻訳家。本業は翻訳だが、「終活ライフケアプランナー」の資格を持つ。訳書には「敵に居場所を与えるな」(ルイ・ギグリオ著)がある。ウェブサイト:tajirijunko

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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