マスコミは、3件の事件の犯人は同一人物「リップスティック・キラー」であるとして大々的に報道した。警察も犯人を逮捕するため、捜査の規模を拡大した。

そして1946年6月26日、シカゴ大学の男子学生だったウィリアム・ハイレンス(17)が強盗未遂で逮捕された。彼は夜のデートに必要な現金を入手するため、デグナン宅もある高級住宅地でアパートに侵入したが、住人に見つかり通報された。2人の警官がハイレンスを追い詰めた時、ハイレンスは所持していた銃を警官に向けて発砲した。しかし、追跡に加わった非番の警官から頭部に3つの植木鉢をぶつけられ、意識不明の状態で逮捕された。

ハイレンスは1928年にイリノイ州エバンストンで生まれ、大恐慌時代をシカゴ郊外のリンカーンウッドで過ごした。貧しい家庭で育ち、化学セットやおもちゃの飛行機などで遊ぶことを好む一方、両親の関係が険悪だったため、空き巣に入って気を紛らわしていたという。高価な衣服、ラジオ、銃などの盗品は家の近くの物置小屋に保管していた。
11歳のハイレンスは、カップルの性行為を目撃したことを母親に話したとき、それは汚いもので病気につながると告げられた。このことが原因で、後にガールフレンドにキスした際、突然涙を流して嘔吐したという。
13歳になったハイレンスは、盗んだ拳銃を所持していたことで逮捕された。その際に多くの強盗を自白し、インディアナ州テレホートにあるギボー少年学校に送られた。しかし、数カ月後に再び強盗を犯して逮捕。今度は、イリノイ州ペルーにあるカトリック系進学高校のセント・ビード・アカデミーに通うこととなった。そこでは優秀な学生だった。
1945年、16歳のハイレンスはその高い学力を見込まれシカゴ大学に入学、電気工学を専攻した。しかしその一方で、アルバイトをしつつ強盗を繰り返していた。2年目には、女性との交遊に忙しく宿題を怠ったため、成績が下がり始めた。そんな最中、「リップスティック・キラー」と呼ばれ人々を震え上がらせる事件が起きたのだった。

逮捕されたハイレンスは、頭部の傷を縫合された後で刑務所の病棟に移送された。そこで拷問のような取り調べを受け、苦痛と疲労、薬物の影響で意識を失うこともあった。ハイレンスによると、6日間24時間体制で尋問された際には殴打され、空腹状態に置かれたという。また、両親に会うことを許されず、弁護士と話すことも拒否されたという。
ハイレンスは3件の殺人事件のいずれについても自白しなかった。そのため、警察は看護師と医師の支援を受け、無理やり自白させようとした。ベッドに縛り付けられたハイレンスの性器に看護師がエーテルを注ぎ込んだり、警官がスザンヌ殺害の詳細を語りながらハイレンスの腹を繰り返し殴ったりした。