首相としても、国会議員の過半数の指名で選ばれる総理大臣には、国務大臣を任命することも、任意に罷免することもできる(憲法第68条)。従って、総理の意に沿わない大臣を辞めさせたところで、傍から何かをいうのは良いが、それで結果が変わる訳ではないという理屈だ。
その時はすでに紹興酒が1本空いていたので、彼もこれらを理屈立てて話した訳ではない(依って、上記は筆者が彼の言い分を忖度して書き足したことを少なからず含む)。そう言われて筆者はハタと考え込んでしまったが、そのうち話題も変わって、お開きと相成った。
今こうして整理してみても、彼の言い分は理に適っているが、どうも釈然としない。さらに良く考えて、釈然としない原因に辿り着いた。それは、理不尽な指示をした岸田も岸田なら、それに唯々諾々と従った議員も議員で、彼らが岸田に盲従したのも、世間の猛烈な教団叩きのせいだろう、と。
政府が「教団」の解散命令を請求したことの是非を問う世論調査では、84%が評価したそうだ。「猿は木から落ちも猿だが、代議士が落ちればただの人」といわれる通り、議員が世論を気にするのは当然だから、世論調査を見る限り、岸田も自民議員も国民の声を「聞く力」を発揮したことになる。
が、次の様な設問ならどういう結果になったろうか。
即ち、「岸田総理総裁は宗教法人格を保持している宗教団体とその関連団体との関係を理由に、閣僚を更迭し、自党議員にも関係を断たせた。これは憲法に謳われた思想信条や信教の自由を侵していると思うか否か」。
筆者は、この種のことはハマスとイスラエルの問題と同様に、先ずは一般論、あるいは原理原則や法律の側面から考える必要があると思う。然る後に、目の前で起きていることや個別具体的なことに立ち戻って、再考してみるのだ。さもないと感情に流され、事の本質を見失いがちだ。
岸信介はこう言った。
国会の周りはデモでナニしていたけれども、後楽園球場はでは数万の人が入って野球を楽しんでいる。
大衆に追随し、大衆に引きずり回される政治が民主政治とは思わない。民衆の二三歩前に立って、民衆を率い民衆と共に歩むのが本当の民主政治のリーダーシップだ。
安保闘争は、その後もごく一部の活動家に引き継がれはしたものの、今となっては日米同盟抜きには日本の安全保障が成り立たないことを、国民の多くが当たり前に知っている。岸田首相に欠けているのは、岸のこの確固たる信念と二三歩前に立って国民を率いるリーダーシップではなかろうか。
「ポピュリズム」という語がある。「大衆迎合」などと訳される。が、岸田首相には、国民は国の政(まつりごと)を専門家である政治家に任せていることを忘れてもらっては困る。「聞く力」とか言って頼って来られても、国民は困るのだ。
多くの国民が今、この政権の「聞く力」に名を借りた「ポピュリズム体質」の「頼りなさ」と「危うさ」とを感じているのではなかろうか。筆者はそれこそが今、岸田政権の支持率が秋の日さながら釣瓶落としとなっている理由だと思う。自民党は総裁を変えるべきだろう。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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