「AIで世の中、便利になったものだ」という程度なら人畜無害です。もしも便利さと引き換えにあなたの思考能力を引き換えに頂戴します、と言われたらどうでしょうか?「自分は頭がよくないからAI様の指示に従う方がはるかに失敗も少なく人生を幸せにしてくれる」と考えますか?

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岸田首相は今秋のG7にて生成AIについての開発者が守るべき国際的な指針や行動規範を策定する考えだと京都での会議で発言しました。生成AIについては既に多数の開発者や業界のリーダーが様々な発信をしています。今年の春にはイーロン・マスク氏らが6か月ぐらいAI開発の一時停止を訴えていましたが、結局、そんな発言どこ吹く風で開発の進歩は更に加速している感すらあります。
我々の生活に於いて生成AIの進化は、基本的には喜ばしき事だと考えています。ただ、何でも使い方次第であり、毒にも薬にもなり得ます。その進化において職業的切り口を中心にメリットある人とデメリットがある人も生まれるでしょう。ただ、それ以上に私は人間そのものに影響が生じると思っています。それは考えるチカラが衰えるリスクです。
教育の世界では日本の4択式の試験で正解は1つというアプローチが間違っていたのではないかという検証が行われています。採点の公平性、効率性と偏差値主義もあり、記述式論文やディベート能力開発をないがしろにしてきました。ここにきてようやく、その重要性に脚光が集まり、入学試験方式が変わってきたりしているわけです。
ところが、仮にAIが主導する世界になると再び答えは一つに収れんする方向に逆戻りしてしまう可能性があるのではないでしょうか?つまり、発想の奥行きが狭くなるのです。
私のこのブログ、毎日、様々なテーマで今日は何だろうと思ってくださっている方もいるかと思います。一方でよくいろいろなことを書けるな、と思ってくださっている方もいるし、その内容にバッサリと批判と否定を頂くこともしばしばです。以前から何度も申し上げているのですが、私はブログを書く際に題材に関する下調べは最小限の事実関係の把握に留めています。あちらこちらに様々な解説やコメントが立ち上がっていてもあまり読む時間もないのです。
ではどうやって書いているのか、といえばある事実に対して蓄積した知識、情報、判断を掛け合わせているだけなのです。つまり、普段からの様々な書籍などの読み込みや情報収集を通じてモノの本質を自分なりに考えているので一つのテーマに対して脳内である程度の連鎖反応が起きるのです。
例えばハマスとイスラエルの衝突に関するブログでサウジアラビアとの和平交渉という背景を書きませんでした。何故か、といえば全体を俯瞰した時、私にはそれがキーにならなかったのです。メディアはそれがいかにもトリガーだという書き方をしているのですが、影響がないとは言いませんが、私の頭にはそこには反応しなかったのです。メディアをよくお読みの方は「こいつはそんな大事なことを見落としている」と思っているのかもしれませんがそうではないのです。
個人的にはイスラム原理主義の根幹に響く話となれば外交レベルの話というより、宗教の本質的問題ではないかと私は考えました。例えば第三宮殿の建設計画は引き金としては興味深いです。私が宗教の書籍を読んできた中で思うエルサレムという特殊性の位置づけから考えたこことです。