市九郎は主人中川三郎兵衛の妾お弓と懇ろになり、露見して切られそうになるが逆に燭台で殴り殺してしまう。悔やんで自殺を覚悟するも、お弓に唆されて逃げ出したのが安永三年、主人の一子実之助は3歳だった(菊池は安永三年:1774年と書くが、享保三年:1718年でないと辻褄が合わない)。
市九郎は良心の苛責を受けるも莫連者のお弓に引き摺られ、美人局や往来の町人百姓の路金を奪い、いつしか強盗を正当な稼業とさえ心得るようになっていた。そんな三年目の春、開いていた木曽街道の茶店の前を若い夫婦の旅人が通った。
お弓が藪原の宿まで二里に余る道を近いように二人を言いくるめ、茶店で休むよう勧めるのを聞いてその意図を悟った市九郎は、間道を先回りして二人を殺し、二十両と女の着物を持ち帰る。が、お弓は「女の頭のものは、どうおしだい」と鼈甲の簪を奪い忘れた彼を責め、自ら駆け出す。
命を賭した女が、五両か十両の簪のために、死骸に付く狼のように駆けて行くのを見て、市九郎は一緒にいるのが嫌になり、自首しようと着の身着のまま出奔する。が、中途の寺で出会った上人はこの極重悪人をも捨てず、こう教化した。
重ね重ねの悪業を重ねた汝じゃから、有司の手によって身を梟木に晒され、現在の報いを自ら受くるのも一法じゃが、それでは未来永劫、焦熱地獄の苦艱を受けておらねばならぬぞよ。それよりも、仏道に帰依きえし、衆生済度のために、身命を捨てて人々を救うと共に、汝自身を救うのが肝心じゃ。
寺を出た市九郎は享保九年(1724年)、豊後に宇佐八幡宮を拝し、羅漢寺に詣でようと山国川の渓谷を辿った。そして遭遇したのが、里人らが「鎖渡し」と呼ぶ十丈(約30m)に近い絶壁。岩壁に攀じ登り下を振り向いた刹那、彼の心に大誓願が勃然として起こった。
毎年十余人の命を奪う難所を目前にし、身命を捨ててこの難所を除こう、絶壁を掘貫いて道を通じようと考えた市九郎は、その日から羅漢寺の宿坊に泊まり、村々に隧道開鑿の寄進を求める。が、「風狂人じゃ、金を集めようという大騙りじゃ」と、誰も耳を傾けなかった。
彼は独力で大業に当ると決心、槌と鑿を手に大絶壁の一端に立った。一年が経ち一丈(約3m)の洞窟が穿がたれた。更に一年二年と経つうち、里人の表情は驚嘆から同情に変っていた。彼が托鉢に出ようとすると、洞窟の出口に一椀の斎を見出すことが多くなった。
四年目の終りに洞窟は五丈(15m)に達したが、三町(約330m)を超える絶壁にはなお亡羊の嘆があった。九年目の終りには二十二間(約40m)まで、十八年目の終りには岩壁の二分の一まで穿っていた。
ここまで一度ならず助けに入っては諦めて去っていた里人も、この奇跡を前にもう誰一人疑わず、前二度の懈怠を恥じ、合力の誠を尽くして彼を援け始めた。中津藩の郡奉行も奇特の言を市九郎に下し、近郷近在から石工三十人が集められた。
が、彼の足は二十年近く岩壁の奥深く座り続けたため傷み、歩行には杖が要った。日光を見ない上、飛び散る石の砕片に傷つけられた両眼は光を失いかけていた。だがその頃、市九郎の身にもう一つの命の危機が訪れようとしていた。
(後編に続く)
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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