学を学として知識に留めておく限り実際の生活において殆ど役に立たないもので、行を通じて血肉化する中で本物にして行く必要があります。即ち、日々の仕事、あるいは社会生活において常に事上磨錬し知行合一を実践して行く中で始めて、その人の人間においての実質的な進歩向上が見られるのであって、そうでなければ永久に自分自身は知り得ないということです――之は嘗て此の「北尾吉孝日記」で、『自己を得る』という中で述べた言葉です。
『老子』第三十三章に「知人者智、自知者明…人を知る者は智なり、自らを知る者は明なり:人を知るのは智者に過ぎないが、自分を知るのは最上の明とすべきことだ」とあります。知というのは極めて重要で身に付ける必要性は大いにありますが、同時に頭だけで把握していても本当に分かったことにはなりません。明治の知の巨人・安岡正篤先生も「単なる頭ではなく身体で、生命で全精神でこれを把握する必要がある」と言われているように、宇宙の本質は無限の創造であり変化であり行動であるため、知だけでは到底真理は会得出来ず、行動・実践を伴わねばなりません。つまりは、陽明学の祖・王陽明の『伝習録』に「知は行の始めなり。行は知の成るなり」とある通り、知と行とが一体になる知行合一でなくして真理には達し得ないのです。知と行が相俟って知行合一的に動き行く中で始めて、身体で知を経験し本当に分かって行くわけで、明を創り出すものはある意味知と行と言えるのかもしれません。
明というのは、全ての人々が母親の胎内に宿った時から有しているものだと言う人もいます。『大学』では、「明徳を明らかにする」ことが大切だと「経一章」から教えています。本来人間は皆「赤心…せきしん:嘘いつわりのない、ありのままの心」で無欲の中に此の世に生まれてきているにも拘らず、段々と自己主張するようになり私利私欲の心が芽生えてき、そして私利私欲の強さに応じ次第に明徳が雲らされ、結果として明が無くなって行くことにもなってしまいます。我々人間は死するその時まで唯々修養しようという気持ちを持ち続け、私心や我欲で曇りがちな自分の明徳を明らかにするよう尽力して行かねばなりません。