千島防衛で奮戦した樋口季一郎
他方、樺太と千島列島でも、ソ連軍の露骨な侵略、蛮行が繰り広げられました。8月14日に、日本政府がポツダム宣言に従って軍隊を解体した後も9月2日まで戦闘活動を止めず、千島列島を一気に南下し、知床、根室半島の鼻先の歯舞諸島、色丹島まで占領。

樋口季一郎中将Wikipediaより
このとき、千島列島の防衛に当たっていた日本軍の司令官樋口季一郎中将は、大本営の命令に反して、いったん放棄しかけた武器を取ってソ連軍と激戦を交え、辛うじてソ連軍の北海道上陸を食い止めました(私は昔外務省条約局勤務時代に、樋口中将の部下だった人から直接体験談を聞いたことがあります)。
日本では、玉音放送のあった8月15日で戦争は終わったと考えられていますが、国際法上は、東京湾内の米戦艦ミズーリ号上で降伏文書が正式に調印された9月2日まで戦争が継続していたことになります(ちなみに、今夏プーチン大統領は9月3日を正式の「対日戦勝記念日」に指定しました)。
その後、日本が独立を回復した4年後、鳩山訪ソ(1956年)により日ソ国交は回復したものの、領土問題は解決せず、従って平和条約は未締結のまま今日に至っています。ということは、国際法上は日露にはいまだに戦争状態が続いているということになります。
戦争で失ったものを取り戻すことの難しさこのような歴史的経緯をみると、ロシアの北方領土への執着は極めて根強く、しかも彼らの論理によれば、4島は第2次世界大戦の結果獲得したものであるからということなので、容易に手放す気はなさそうです。
戦争で失ったものを平和手段で取り戻すのは至難の業。極端な言い方をすれば、日本がこれらの島を取り戻すには、もう一度戦争をして、しかも勝たねばならないということでしょうが(ちなみに、日米開戦時とポツダム宣言受託時の東郷外相の辞世の歌は、「いざ児らよ戦うなかれ戦わば勝つべきものぞ夢な忘れそ」)、もちろん、そんなことはできません。
しかし、だからと言って、絶望的になってはいけません。今後の状況いかんによってはロシアが返還せざるを得ないような事態が生ずるかもしれないからです。過去において、
それに近い状況になりかけたことが一度あります。それはソ連の政治と経済が極度に悪化した1980年代後半、アンドロポフ、チェルネンコ政権時代で、実にひどい状況でした。
そのころ私は時々モスクワに行きましたが、市民の困窮ぶりは、あたかも敗戦直後の日本の惨状を思わせるほどで、あの時が一つのチャンスだったのではないかと思います。その後ゴルバチョフ、エリツインが次々に来日したのも、日本の経済援助に期待をかけていたからで、領土問題についても前向きになりかかっていたように思います。
将来あのような状況が再来するかどうかわかりませんが、このことは頭の片隅に置いておく必要があると思います。
いつの日にか日露は再び???プーチンが大統領に留まっている間はほぼ絶望的だとしても、今後国際情勢がどう変化するか誰にも予測できない以上、あらゆる可能性に備えて、いつでも柔軟に対応できるようにしておくことが重要です。領土問題の解決に安易な妥協は許されず、「臥薪嘗胆」の不屈の精神が不可欠です。
敗戦後間もなく、私が最初に観た外国のカラー映画はソ連の「シベリア物語」(1948年日本公開)でしたが、あの映画に出てくるロシア人の素朴な人懐っこさは今でも記憶に残っています。その後東京の新宿などの盛り場では、「カチューシャ」とか「ともしび」など歌声喫茶がはやり、ロシアの民謡やフォークソングが学生や若者の間で人気がありました。
いまではすっかり下火になり、特にウクライナ侵攻以後はロシアの評判は下落する一方で、あのような時代が再びやってくるか甚だ疑問ですが、好き嫌いにかかわらず、日露関係を百年単位の長い時間軸で考える姿勢が常に必要ではないか。知床岬で国後島を眺めながらそう痛感しました。
(2023年10月11日付東愛知新聞 令和つれづれ草より転載)
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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