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冒頭から私事で恐縮ですが、今年は結婚50周年に当たるので、ささやかな記念行事の1つとして、9月初めに、長年計画していた北海道の知床半島へ行って参りました。幸い好天に恵まれ、夫婦水入らずで知床旅情をじっくり満喫してきました。
北方領土を間近に目撃ウトロと羅臼ではそれぞれ大型の観光船に乗って知床半島の突端まで往復。お目当てのヒグマやクジラには生憎お目にかかれませんでしたが(彼らも連日観光客相手で疲れたのでは?)、その代わり、半島の先、僅か40キロに横たわる国後島をはっきりこの目で見ることができたのは貴重な体験でした。と同時に日本にとって地理的に最も近い外国がロシアであるという厳然たる事実を再認識させられました。

知床峠より北方領土を望む編集部
オホーツク海は旧ソ連時代から原子力潜水艦の「聖域」となっており、また、日本の排他的経済水域では、ロシアの漁船が盛んに操業しているとのことで、港の近くではなんとなく緊張感が漂っているように感じました。
ウクライナ侵攻以来、ロシアはすっかり世界の厄介者視されていますが、日ロ関係もこのところ冷え込んだままで、北方領土問題を解決して平和条約を結ぶという日本側の宿願が実現する見通しは全くありません。
僅か数年前、故安倍首相が在任中にプーチン大統領と26回も会談し、一時期かなり親密な関係を築いたことが嘘のようです。将来日ロ関係が再び好転するとしても相当先の話になるでしょう。そうであるならば、こちらも長期戦覚悟で、この機会に、一度立ち止まって、日ロ関係の来し方行く末をしっかり考え直す必要があります。
以下、日ロ関係の歴史を駆け足で振り返ってみましょう。
ロシアの伝統的な南下政策帝政時代のロシアは、18世紀初め、日本の江戸時代半ばころから、不凍港を求めて南下政策を推し進め、日本近海にもしばしば出没していました。
幕末には、プチャーチンを先頭に対日接近の機会を虎視眈々と狙っていましたが、米国のペリー艦隊来航(1853年)をきっかけに日本が開国すると、直後に日露和親条約(1855年)、続いて日露修好通商条約(1858年)を締結。これにより、下田、函館、長崎の3港が開かれるとともに千島列島の択捉(エトロフ)と得撫(ウルップ)の間に両国の国境が定められました。これが、現在の北方4島問題の原点です。
ちなみに、これら幕末の条約交渉では、三河縁故の初代外国奉行・岩瀬忠震(ただなり)が大活躍したことは周知の通り。詳しくは「愛知県が生んだ歴史上の大人物」(2020年9月29日)をご覧ください。
その後明治時代になると、ロシアの南下政策は一段と加速し、北海道(かつての蝦夷)への領土的野心をちらつかせるようになります。北からの脅威にさらされた明治新政府は、北海道開拓を急ぎ、北の守りを固めます。
実は、今回の旅行で最初に1泊した網走では、旧網走監獄を見学しましたが、そこでのガイドの説明で初めて知ったことは、明治政府は、札幌からオホーツク海沿いに鉄道や道路を建設する大土木工事に、網走監獄の囚人を総動員したという事実。酷寒の厳しい環境での囚人たちの犠牲的貢献がいかに大きかったか、また、明治政府の対露恐怖感がいかに強かったかを思い知らされました。
強大な白熊に挑む小国日本こうした明治政府の必死の防衛努力にもかかわらず、ロシアの野心的な南下政策は止まらず、日清戦争(1894~5年)後の下関条約で日本が中国から割譲された遼東半島の利権をロシアなどの圧力で返還させられる(3国干渉)など、日本は苦汁を飲まされ、日露関係はますます険悪化。ついに日露戦争(1904~5年)となります。

反ロシアの風刺地図(1904年)Wikipediaより
当時世界最強を誇ったロシア軍との戦いで小国日本が奇跡的な勝利を収めたことは全世界の驚きでした。この勝利で一気に世界の列強の仲間入りした日本は、第一次世界大戦(1914~18年)では戦勝国の一員となり、アジアの黄色人種の代表として新設の国際連盟の理事国にまで駆け上りました。
その辺で止めておけばよかったのに、軍国主義化し自らの実力を過信した日本は、「アジア民族解放」を叫び、ヒトラーのドイツと組んでついに米英などと正面衝突。その結果、明治以後苦労して手に入れたものをすべて失う羽目に。
ヤルタ密約とスターリンの野望一方のロシアは、レーニンによる社会主義革命(1917年)で「ソヴィエト連邦」に生まれ変わり、第2次世界大戦では連合国の一員として、ナチス・ドイツ打倒に貢献し、一気に大国化。その余勢を駆って、中立条約を結んでいた日本との戦争にも突如参入。

リヴァディア宮殿で会談に臨む(前列左から)イギリスのチャーチル首相、アメリカのルーズベルト大統領、ソ連のスターリン書記長Wikipediaより
これらのことは、ヤルタ会談(1945年2月)における米英ソの三首脳の密約に基づくものですが、この時点で、もともと容共的なルーズベルトはすでに病身で弱気になっており、しかも原爆完成の目途も立っていなかったので、早期のソ連の対日参戦を求めるあまり、スターリンが提示した「条件」をそのまま吞んだものとみられます。
この辺の状況は大変複雑なので割愛しますが、スターリンがドイツ占領政策に倣って、日本の分割占領方式を考えていたことは確か。具体的に言えば、ソ連は、仙台以北の日本、少なくとも北海道の占領を目論んでいたとされます。
ところが、土壇場でルーズベルトの後継者トルーマンと連合国軍最高司令官のマッカーサーがソ連の要求を蹴ったため、甘い汁を吸いそこなって怒ったスターリンは、代わりに満州(中国東北部)の日本軍約60万人をシベリアに連れ込んで、労働力として働かせたわけです。その約1割が過酷な環境での強制労働で死亡したことは周知のとおり。