先月半ば3週間を予定した今回の台湾行も余すところ数日となった2日、いよいよ最大の目的だった李登輝閣下の墓参りと相成った。

「五指山国家陸軍模範墓地は、台北MRT文湖線の内湖駅から12km」という情報だけが頼り、加えて墓地に辿り着いたとしても、一介の日本人が元台湾総統閣下の墓前にお参りすることが叶うかどうかすら定かでなかった。その墓参の一部始終をご報告したい。

内湖駅からタクシーで向かった道路は、ちょうど箱根の「ターンパイク」をかなり鄙びさせたような寂しい趣で、まさに墓地に向かう道を思わせた。時折出会う対向車とかろうじてすれ違いながらくねくね上ることおよそ30分、ようやく五指山頂上の公墓に辿り着く。

運転手さんに「李登輝閣下墓参」と書いた「メモ」を見せるが、当惑した様子で煉瓦色の建物を指さす。「服務大楼」とあるから管理事務所か。入り口の警備員に軽く会釈しつつ中に入ると、正面の壁一面に埋葬者の遺影が並ぶ。先ずはスマホで端から撮影し始めた。

李登輝閣下の前で筆者提供

撮り終えると、先客で塞がっていた3カ所の窓口が1つ開いたので、例の「メモ」を差し出す。すると中から背の高い職員が二人出て来て、何やら話し掛けてくる。言っていることは全く判らないながら、その様子と身振りから、「出来ない」と言っているようだ。

が、「そうですか」と帰る訳には行かない。そのためにはるばる来た台湾だ。なおも「メモ」を示しながら「何とかなりませんか」と日本語で食い下がる。二人は奥の部屋に入って行き、白の開襟シャツに制帽を被った上司らしき人物を連れて私のところに来る。

彼はスマホを取り出しして自動翻訳画面を私に見せる。「李登輝閣下の墓参には家族の同意が必要です」とあった。次に音声入力で「どこから来ましたか」と問われたので、「私は日本人」「墓参りのために横浜から来ました」と音声入力で返事した。

すると「閣下とはどういう関係か」と聞いてきた。その一言で、はたと思い出した。台湾在勤当時の「高雄日本人会会長」の名刺が一枚財布に入っていたはず、と。取り出して示すと、彼からも名刺を渡された。「後備指揮部国軍示範公墓管理組 組長 林冠甫」とあった。

私は自分の名刺を指さしながら、「これは2014年当時の名刺だ」「その2月、閣下に高雄で講演して頂いた」とスマホに喋る。すると、渡すつもりのなかった私の名刺をポケット入れにしまい込みつつ、林組長が頬を緩ませた。「OK」が出たのだ。

総統や上将クラスの者だけを葬る国軍示範公墓の管理組長ともなれば、万が一何か粗相があれば一生を棒に振る可能性もある。自分で印刷した私のペラペラの名刺でも、記録に残しておく必要があると言うことだろう。

李登輝閣下のお墓は南側の斜面を階段状に整備した一角にあった。階段の途中に警備小屋があり、中にガードマンが常駐している。そこから一段下がった閣下の墓石は露座だった。報道で見た、安部昭恵さんがお参りした際の写真で屋根に見えたのはテントだったか。

お参りを済ませ、写真を撮る仕草で許可を仰ぐと、林組長の首は左右に傾がれた。その代わりに南西方面を指さし、「『101』が見えるから写真を撮れ」との仕草。「101」を撮るふりをして、自撮り機能で後ろの墓石を撮ろうか、との思いが私の頭をかすめる。

が、近現代最高の政治指導者であり哲学者でもあった世界的な偉人の墓参りに来て、禁止行為をするようでは日本人の名が廃る。礼を述べて帰ろうとすると、事務所と私のスマホを交互に指さす。「遺影を背景に写真を撮ってあげましょう」と言うわけである。

斯くて30分にも満たない国軍示範公墓の滞在を終え、タクシーに乗って内湖駅まで戻った。タクシー代は待機時間を含めて995元(約4800円)だった。千元札を渡し、差し出された5元に「不要(プーヨン)」と返したのは言うまでもない。

以上、窮余の一策で差し出した名刺が役に立ったのだが、林組長の表情の変化を見るにつけ、それは私にとってだけでなく、彼にとっても遠来の客を無為に帰さずに済ませたと言う意味で、「救いの名刺」でもあったように思う。