第三に、インドが「価値観を共有するパートナー」だと考える、ということは、インド人がいずれ、「トルドー首相はモディ首相より格好いい」と信じるようになり、「カナダ人が批判するならインドが間違っているのだろう」と考え始める、などという幻想に浸ることを全く意味しない。そんなことは決して起こらない。だが、欧米諸国の「リベラル系」知識人は、そのことが、全くわかっていない。

インドと日本や欧米諸国が共有しているのは、アメリカの東海岸の大学の教授陣が熱心に講義している「リベラルな秩序」というよりも、「国連憲章の諸原則を基盤にした国際秩序」である。両者は重なるが、同じではない。インドは後者に明確にコミットしているが、前者へのコミットの度合いは欧米諸国や日本ほどではない。

だがそんなことは言う必要もない自明の事柄である。欧米諸国とインドが違うということは、インドがロシアや中国が同じだということを、全く意味しない。だが短絡的な欧米中心主義的な二元的世界観は、インドのような異質な超大国の存在を許さない。

残念である。

豊かなインド文明への尊敬を忘れ、インドが世界最大の70年以上の歴史を誇る民主主義国である(ただしリベラルではない)ことを忘れる者は、いずれ痛い目にあうだろう。

日本にとって、そして欧米諸国にとって、インドは、異質な国であるまま、基本的な価値観を共有する偉大なパートナーになりうる。それなのに「欧米と違うなら、ロシアや中国と同じだろう」と言ってインドを突き放すのは、自殺行為だと言っても過言ではない。

安倍首相が、「自由で開かれたインド太平洋」構想をインドで披露し、米国(とそのジュニア同盟国)がインドと連携する「クアッド」を確立したとき、インドが欧米のような国になるとか、将来インドをG7に入れるべきだとか、インドと軍事同盟を結ぶべきだとかは、言っていなかった。インドは、欧米諸国とは異質だが、「(国連憲章の諸原則の)価値観を共有する」偉大なパートナーになりうる。そう考えていたはずだ。

今や日本でも、「自由で開かれたインド太平洋」を忘れ、「(弱くて貧しい)グローバル・サウスを手なずける先進国」でありたい、という幻想にしがみつく者ばかりになってきた。

非常に残念である。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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