狙っていたのは、キリシタン大名を援助して、布教や貿易を進めようという程度だったのでございます。大村氏は、南蛮船の寄港を増やすために長崎周辺を教会に寄付していましたが、それも秀吉によって返還させられました。

どうしてキリスト教が流行ったかと云うことですが、私たちの時代は、武士も庶民も、古い道徳や秩序にとらわれない自由を手に入れた時代でございました。そういう世相の中では、毒にも薬にもならない古い信仰より、現世利益の教えで京都の町衆たちに力を伸ばした法華宗、蓮如上人の改革で農民たちの気持ちをとらえた一向宗、そして、一神教の論理が清新だったキリスト教などが、時代的な気分に合っていたのです。

しかし、イエス様の教えは魅力的とはいえ、南蛮人たちがそれを梃子に利益を得ようとしているということを、秀吉などは敏感に感じ取りましたし、日本人を外国に奴隷として連れて行くという不愉快な噂も聞こえてまいりました。

そして、そういう不信感が、コエリョという愚か者の浅はかな行いを機に、キリシタン禁止令というかたちになったのです。しかし、それほど厳しいものではなく、本格的な弾圧はオランダが日本にやって来て、カトリックを德川家康さまに誹謗中傷してからです。

船長の法螺で厳しくなったキリシタン禁制

天正15年(1587年)に秀吉がバテレン追放令を出しましたが、その内容は布教を禁止したとは言え、信仰し続けるのは黙認しておりますし、実際、神社や寺を壊したりしなければ、キリシタン大名ですら厳しいお咎めはありませんでした。

狩野内膳画南蛮屏風Wikipediaより

南蛮船はあいかわらず来ましたが、いっときの長崎のように教会に土地を寄進したり、日本人をおおっぴらに奴隷にすることができなくなっただけです。

天正20年(1592年)には、スペインのマニラの総督に入貢を要求しましたが、関係が緊張したわけではありません。翌年にはフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し、京に修道院の建設が許可され、敵対的なことをしなければ布教してもお咎めはありませんでした。

ところが、天正14年(1596年)7月にマニラを出航したサン=フェリペ号が、メキシコを目指したものの台風に遭って土佐に流れ着きました。領主の長宗我部元親さまは、積み荷を没収したものの船長が抗議するので、判断を秀吉に求めたのです。

秀吉は増田長盛を土佐に派遣し、日本を侵略するつもりがあるのでないかと尋問したところ、デ・オランディアという水先案内人が長盛に世界地図を示し、「スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服をしてきた。まず、その土地の民を教化し、そののちに信徒を内応させ兵力をもって呑み込むのだ」とお粗末な法螺を豪語をしたのです。

しかし秀吉も、マニラでのスペインの軍事力には限界があって、日本を攻めるなど無理だということを知っていたので、これにひどく驚いたというほどではなかったのですが、こんなことを言われたら、そのままにしておけません。

このために、キリシタン禁制が確認され、京にいた宣教師たちは慶長元年(1597年)12月に長崎で処刑されてしまいました(26聖人)。ただし、船の修理は認められ、無事にマニラに帰りましたが、これを機にフランシスコ会の活動は難しくなりました。

大坂と京都でフランシスコ会員7名と信徒14名、イエズス会関係者3名の合計24名が捕縛されました。24名は、京都・堀川通り一条戻り橋で左の耳たぶを切り落とされて、市中引き回し。長崎で処刑せよということになって、道中でつき添っていたペトロ助四郎と、フランシスコ会員の世話をしていた伊勢の大工フランシスコ吉も捕縛されました。

26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名でありました。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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