木曽義昌は武田信玄の娘婿だが、織田方についた東濃の遠山氏らの圧迫に耐えかね、信長に寝返ったことが武田滅亡のきっかけになった。武田勝頼に人質になっていた義昌の母や長男を殺されたが、信長からは木曽谷だけでなく、松本付近を含む筑摩・安曇二郡を与えられた。
本能寺の変の後、義昌は逡巡したが家康の支配下に入った。ところが、家康が松本城を武田信玄以前の領主である小笠原氏に与えたので、秀吉に鞍替えした。さらに、小笠原氏も石川数正に道連れにされて豊臣方に転じたのである。そうなると、上杉も関東に攻め入ったかもしれない。
旭姫を正室にすることを家康が嫌がったとドラマでは描かれがちだが、嫌ならもらう理由などないからおかしな話だ。断ることは可能だった。
人質としても意味があるが、それより、兄弟として遇せられることが大事だ。戦国時代でも江戸時代でも、親戚になると官職などで得をする。
家康はこの結婚のお陰で、秀吉の弟の秀長と同格に扱われることになった。
五大老の一人宇喜多秀家は、前田利家の娘で秀吉の養女だった豪姫の婿だったので、中納言になり毛利輝元や上杉景勝と同格になったのである。
九州のことは、上述の記事に書いたとおりだ。九州を島津に統一されては、南蛮貿易も独占されるし、事実上の半独立国になる。これは阻止しなければならなかった。
ただし、植民地化の危険を防いだなどというのは嘘だ。そうしたものが出てきたのは19世紀になってから。16世紀から19世紀から西洋は日本と同じように進歩しなかったと勘違いしている馬鹿な人が多すぎる。
本稿の内容は、「令和太閤記 寧々の戦国日記」(ワニブックス)に詳細を書いてある。
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提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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