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政策提言委員・金沢工業大学客員教授 藤谷 昌敏
1944年(昭和19年)12月には「昭和東南海地震」が、約1ヵ月後の1945年(昭和20年)1月には「三河地震」が発生した。どちらも南海トラフに属する大地震だった。
太平洋戦争の渦中にあった日本が既に劣勢に陥っていた中に発生した2つの地震は、日本の軍需工場が集中する東海地域に壊滅的打撃を与えた。それにもかかわらず、報道管制により地震の報道はほとんど出ることはなく、被害の詳細な記録も少なく、正確な被害状況は未だに定かではない。
本稿では、昭和東南海地震の状況、なぜ隠されたのかなどについて触れ、近いうちに発生すると予測される「南海トラフ巨大地震」の影響などについて考察してみたい。
隠された大地震「昭和東南海地震」1944年(昭和19年)12月7日午後1時36分に熊野灘沖を震源とするM7.9の地震が発生した。震源域は紀伊半島東部の熊野灘・三重県尾鷲市沖約20キロメートルから静岡県浜名湖沖とみられており、震源の深さは約40キロメートル、震度7の被害にあったのは愛知県西尾市、静岡県菊川市、袋井市などとされる。津波は8~10メートルに達し、南海トラフの東南海領域で発生した海溝型地震である。
愛知・三重・和歌山・静岡の各県で1,200人以上が犠牲となり、2万棟の家屋が倒壊した。だが、戦時下であったことにより、その状況はほとんど報道されなかった。
当時、東洋一の近代工場と呼ばれた「中島飛行機半田製作所山方工場」には、各種部品工場、主翼塗装・鍍金工場、燃料槽防弾加工等の特殊加工工場、最新鋭機だった艦上攻撃機「天山」と艦上偵察機「彩雲」の胴体組立工場、油庫、講堂兼食堂、寄宿舎、郵便局、病院などがあった。
半田市全体の死者数は188人だったが、その81%にあたる153人(中学生以上の勤労動員の学生を含む)が中島飛行機で働いていた人たちだった。
被害状況については、新聞社に対して厳しい情報統制が敷かれ、「軍の施設や軍需工場の被害等戦力低下を推察できるようなことは掲載しない」「名古屋・静岡など重要都市の被害が甚大であるような取り扱いをしない」などの制約が課された。
この「昭和東南海地震」は、「安政の東海・南海地震」から90年後に起きた地震で、その2年後に起きた「昭和南海地震」と合わせて、最直近の南海トラフ巨大地震とされる。
ちなみに「安政の東海・南海地震」とは、安政元年(1854年)11月4日に安政東海地震、翌5日に安政南海地震が発生したことを指し、伊豆から四国までの広範な地帯に死者数千名、倒壊家屋3万軒以上という被害をもたらした大規模地震だ。
昭和東南海地震が発生した1944年は、6月にはサイパンの玉砕、7月、東条内閣総辞職、11月、米軍機B29による東京初空襲など、日本の敗色濃厚の戦況の中にあった。報道管制や災害隠ぺいで、全国からの救援物資や義援金は得られず、被災地の復旧復興を大幅に遅らせることになった。