私が若い頃はデートをすれば食事は男性がごちそうするものだという固定概念がありました。なるべく見栄の張るクルマに乗り、誰でも知っている有名ロゴマークの入っているポロシャツを着て格好良く見せる、これらは異性を意識した振る舞いだったと思います。それで世の中、うまく機能していたのです。

今世紀に入ってそれは大きく変わり、デートは割り勘、同棲しても生活費は全て割り勘、極端な例は喫茶店での会話もスマホのテキスト越しなんていうよくわからないおまけもあるようです。

2月14日のバレンタインデーは世界どこでもありますが、日本のそれは特別仕様で女性が男性にチョコを上げる商業目的から生まれた習わし。3月14日のホワイトデーは当然にして商業目的筋が「10倍返し」などとぶち上げるためにブランドものバックやアクセサリーを買い漁る男性客で店はホクホクになります。

私が感じる今世紀に入ってからの男女平等とは男も女も「対等っぽい」関係を作る、ということかと思います。これが社会的に時として本筋から外れてやしないかな、という気もしています。

男女平等とは社会的、政治的なスタンスと提言であり、生理学的には当然違います。暗い夜道は男なら平気で通れるかもしれませんが、女性は嫌でしょう。狭いエレベーターで知らない男が声をかけてきたら気味悪いでしょう。でも逆なら全然OKですね。つまり違いは違いであって、それを踏まえないで何でも平等というのは無理があるのです。

欧米の女性と日本を含むアジア系の女性を比べるのは申し訳ないけれど無理があります。「オンナの自立」の歴史が違うとかそういうレベルの話ではなく、遺伝子的に欧米の女性は個体として強いし逞しいし、カラダも声も大きい人が多いです。(いや、カラダが小さくても自我に目覚めた女性は多いと思います。)なので欧米発祥の男女平等をそのままそっくりアジアに移植するのはちょっと無理があるのだろう、思っています。

ところで7-8人ぐらいの飲み会で最後精算する時、頭割りすることは多いと思います。しかし、飲んだ量は皆違います。そして男性は概ねよく飲みます。この割り勘コールが出た際に機会があるごとに「それでは申し訳ない」と自分の飲んだ分ぐらいを「これは寄付。総額から差し引いて割り算して」といいます。そうすると俺も、私もとどんどん集まってきて自然と均等割りに近くなるのです。

平等という発想は気持ちと観念です。残念ながら世の中は男女関係に限らずあらゆるところで差があります。収入、家系、職業、容姿、体格、学歴、出身地…いくらでも思いつきます。よって、私は平等とやみくもに叫ぶのではなく、その差を認識したうえで何をすればより差を埋めることができるのか、という発想に切り替えるべきだと思うのです。

私の友人が以前、家に遊びに来た際に1万円もするワインを持ってきました。彼と長年付き合う中で私が彼に贈り物をしたことはないと思います。その代わり、10数年にわたりいろいろな相談に乗っているし、困ったことがあった際にちょっと一肌脱いで問題対処に協力したこともあります。もしも私が彼にその頃、お返しにと言って1万円のウィスキーを差し上げたら関係はチャラになるのですが、あえてそんな「清算行為」はしないのです。