長久手で大勝利を挙げた家康は、深追いすることなく、当日の内に小幡を経由し小牧へ撤収した。秀吉は長久手での敗戦の報を受けた後、竜泉寺を経て長久手まで進軍した。けれども家康が小牧に戻ったことを知り、楽田に引き返した。6月には秀吉も家康も、小牧方面の守りを家臣に任せて後方に退いたため、両雄が直接戦場で敵味方として相まみえることはなかった。

このように三河中入り策は完全に失敗に終わったが、前述の通り、もともと秀吉は乗り気ではなかった、というのが通説である。しかし、この通説は疑わしい。秀吉が4月8日に越前の丹羽長秀に宛てた手紙では、三河中入り策が進行中であることを詳細に連絡している(「山本正之助氏所蔵文書」)。

それによれば、秀吉は九鬼水軍による三河攻撃も計画していた。秀吉は、家康本国である三河国への陸海両面攻撃を視野に入れた大規模な作戦を構想しており、池田恒興に対し深入りを戒めたという通説と矛盾する。

そもそも、秀吉が三河中入り策に消極的であったという通説の根拠は何か。実は、栗原信充によって編纂され幕末に刊行された実録(事実をもとにしたフィクション)である『真書太閤記』が出どころなのである。小瀬甫庵の『太閤記』や武内確斎の『絵本太閤記』などの先行する太閤記では、秀吉が中入り策に懸念を示したという記述は見られない。

秀吉は江戸時代の庶民から絶大な人気を得ていたヒーローであり、秀吉を主人公にした多数の作品が生み出された。時代が下るにつれ、秀吉の智謀が強調され、後の作品であればあるほど、秀吉は超人的な存在に造形されている。『真書太閤記』は江戸時代の太閤記作品の集大成とも言えるもので、秀吉を万能の智将として描いている。

秀吉を完璧な武将として礼賛する『真書太閤記』の立場からすると、三河中入り策の大失敗という秀吉の不名誉な敗戦は、たいへん不都合なものであった。ゆえに、三河中入り策は池田恒興が強引に主張した作戦であり、秀吉はしぶしぶ認めた、という筋書きが必要だったと考えられる。実際には秀吉主導の作戦だったのだが、秀吉の失点を隠蔽するため、池田恒興に全ての責任を押し付けたのである。

私たちの戦国合戦に対するイメージは、江戸時代以降の物語に由来するものが意外に多い。常に出典を確認する意識が求められる。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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