先日の『どうする家康』第32回の放送で、小牧・長久手合戦が描かれた。同合戦は、豊臣秀吉と徳川家康という二大英雄が直接対決した唯一の合戦として知られる。同合戦そのものは家康の勝利に終わったが、秀吉は合戦後に、周囲の敵対勢力を次々と屈服させ、家康に対して優位に立つ。戦術的には家康の勝利、戦略的には秀吉の勝利と言えよう。

第32回「小牧長久手の激闘」よりNHK「家康ギャラリー」
一般に小牧・長久手合戦では、秀吉側が「三河中入り」を策し、これを家康側に看破されて敗れたと言われている。天正12年(1584)3月、家康は尾張の小牧城(現在の愛知県小牧市堀の内)に入り、秀吉は楽田(現在の愛知県犬山市楽田)に陣を構えて、にらみ合っていた。
この膠着状態を打開すべく、秀吉方の池田恒興が「三河中入り」を秀吉に提案する。家康側が前線に兵力を集中させていることに目をつけ、家康の本国である三河国に侵攻することで、戦局を一挙に好転させようとしたのである。
秀吉は「家康ほどの武将が本国を手薄にしているはずがない」と難色を示したが、恒興はしつこく食い下がった。秀吉と恒興は織田信長の家臣として長い付き合いがあり、秀吉は先輩格の恒興の意見を軽々しく却下することはできなかった。
家康は信長の次男である信雄を総大将に擁立しており、恒興が怒って信雄に走る恐れもあったからである。根負けした秀吉は敵を侮らないよう、敵地に深入りしないよう、念を押した上で中入り策を許可した。
三河中入り勢は、秀吉の甥である秀次を大将に据え、池田恒興・森長可・堀秀政らを加えた、総勢2万5千の大軍であった。4月6日夜、中入り勢は三河西部を目指して出発した。しかしながら、7日には家康はこの動きを察知し、逆に中入り勢を撃破しようと考えた。8日、徳川軍は小牧城から南下し、小幡城(現在の名古屋市守山区)に移動した。
9日早朝、中入り勢の最後尾を進む秀次隊は、白山林で休憩中に徳川軍支隊の急襲を受けて敗走した。秀次隊の敗報を知った堀秀政は直ちに引き返し、白山林から南東方向の小高い丘である檜ケ根に布陣した。堀秀政は徳川軍支隊を撃退したが、徳川軍本隊の接近を知って撤退した。
中入り勢の第1陣の池田恒興、第2陣の森長可は徳川方の岩崎城(現在の愛知県日進市岩崎)を攻略していたが、秀次隊の惨敗を知り、引き返した。池田隊・森隊は、長久手で徳川軍本隊と激突した。森長可、池田恒興・元助父子が戦死し、中入り勢は壊滅した。