清洲会議では、南伊勢と伊賀の旧領に加えて尾張を得て、北伊勢の一部の旧領に美濃を加えた信孝より上だった。ただ、信雄・信孝は会議に出席せず、5人の宿老による集団指導体制が決められ、三法師の後見役にもならなかった。
ところが、信孝が岐阜城から安土に移すはずの三法師を手放さず後見役を狙い、柴田勝家や滝川一益が後押ししたので、秀吉と丹羽長秀が、信雄を三法師成人までのつなぎ役としての織田家当主と認め、家康も支持した。
「どうする家康」で描かれたような、家康が勝家に近かった事実はない。
この時期、京都所司代は信雄が任命するが、秀吉の指示で仕事をするという具合だった。また、安土城に織田家の跡継ぎとしての三法師があった。三法師はいわば代表権のない社主である。信雄は自分が社長で、秀吉は実力副社長にすぎないと考えたが、一方の秀吉は、信雄は名目だけの会長で、自分が実力社長と位置付けた。
1584年の正月、安土城で諸大名は三法師を抱いた秀吉と、信雄の屋敷に、別々にあいさつに行った。また、大津の園城寺(三井寺)で秀吉と信雄が会談したが、信雄は最初の会談の後、暗殺をおそれ、家臣たちを置き去りにして伊勢長島へ逃げ帰った。
家康と同盟し、4月に小牧・長久手の戦いに臨み勝利するが、秀吉は尾張から撤退し、伊勢の平定に転じた。秀吉が味方に付けた滝川一益の攻勢は退けたが、伊勢は失った。領土の重要部分を占領されて困窮した信雄は秀吉と会談して、北伊勢だけ返してもらい、娘を人質に出した。
しかし、秀吉が抜群のさえを見せたのは、官職で釣ったことだ。秀吉は従三位・権大納言となっていたが、翌年の2月に信雄が大坂城に上ると、同じ官職を信雄にも与えメンツを立て、翌月に自分は正二位内大臣になった。現代の企業でいえば、秀吉が会長と社長を兼ねて、信雄は代表権のない副会長になったのだ。
秀吉は家康の懐柔に転じ、信雄に妹・旭姫の輿入れのあっせんをさせた。1586年に家康は大坂に赴き、翌年には、関白秀吉の義弟として従三位・権大納言となり、信雄は正二位内大臣に昇任した。
信雄は小田原の役では韮山城攻防戦などで活躍した。家康の関東移封に伴い、秀吉は信雄に家康の領国の大半を与え移るように命じたが、信雄はこれを固辞した。秀吉は怒って信雄を追放し、下野烏山、ついで出羽秋田郡、さらに伊予に流した。この伊予で夫人を失ったらしい。
いったん追放しても、恭順していれば赦免するのが秀吉流の人事管理である。信雄も2年後には赦免され、秀吉の御伽衆(耳学問のための話し相手)となり、大和に隠居領ももらい、嫡男の秀雄も越前大野城主、従三位・参議となった。
官職は辞しても前官待遇で序列は決まるし、面倒を見る家来や一族も減るので、それほど悪い話ではない。秀吉の御伽衆には、足利義昭、斯波義銀などの織田家のかつての主君から、今井宗薫、古田織部など文化人まで多士済々だったから、楽しい社交サロンである。信用できない部下に悩まされ続けてきた信雄にとっては幸福な日々だっただろう。
秀吉が死ぬと、淀殿の周囲には親戚として織田一族が集合した。叔父の織田信包が最長老で、叔父の有楽斎もいた。関ヶ原の戦いでは西軍寄りの立場を取って、信雄も秀雄も改易されたが、信雄は大坂城で淀殿の元で暮らし、秀雄は江戸で扶持を与えられた。
大坂城内で、織田一族は徳川との融和派だった。江が秀忠夫人で家光も生まれた。浅井三姉妹と織田一族をブリッジに、織田・豊臣・徳川連合による「創業家集団」で天下を経営するのも、非現実的ではなかった。
信雄は冬の陣の直前に大坂を退去している。信雄を「大坂方の総大将に」といううわさも流れたが、実現しなかったので、へそを曲げたのかもしれない。
信雄は片桐且元退去の後、京都へ移った。大坂夏の陣の後、信雄は家康から大和国宇陀郡と上野国で5万石を与えられ、四男・信良に上野小幡2万石を分知した。
そして、信良の娘が稲葉信通の夫人となり、その子孫が公家の観修寺家を経て仁孝天皇の母となり、また、高長の子孫が柳原家を通じて大正天皇の母となったので、現皇室は二重に信雄の子孫である。
信雄の「軽率だが、失敗しても無理はしない」という人生哲学は、結果としてのれんを守り、子孫の繁栄をもたらしたのだから、決して暗愚のジュニアでもなかったようだ。
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提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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