ダイヤモンド・オンラインに『【どうする家康】戦国史のキーパーソン「織田信雄」に学ぶ“創業家出身副会長”の処世術』という記事を書いた。詳細はリンクを呼んでいただきたいが、少し要点・論点を紹介しておきたい。

織田信雄 総見寺蔵 Wikipediaより
織田信雄の伝記をAmazonで探しても一冊もない。
だが、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いの前夜から織田家の当主として扱われ、尾張・伊勢・伊賀で100万石ほどの大領主だった。
そして、正二位内大臣になって、豊臣政権のナンバーツーで、徳川家康や豊臣秀長より上位だった重要人物である。
いってみれば、たたき上げの羽柴秀吉がサラリーマン社長になった織田産業において、創業家出身「副会長」だったわけだ。
織田信長の次男・信雄は、暗愚な人物として語られることが多い。大河ドラマでも、これまで主要キャストであったことはなく、地味な俳優が演じてきた。

織田信長像 愛知県西加茂郡挙母町長興寺蔵 Wikipediaより
母は、生駒一族の吉乃で、信忠、信雄(1558年生まれ)、五徳(松平信康夫人)の母である。
吉乃は早く死に、信雄は11歳の時、伊勢国司で南伊勢を支配する北畠具教の婿養子のような立場になった(形式的には具教の嫡男具房の養子)。信長は武田との通牒を理由に北畠一族を皆殺しにしたが(1576年の三瀬の変。信雄19歳)、具教の娘である雪姫は正室のままとした。
信雄は同母兄の信忠に助勢して各地を転戦したが、武功を立てたくなったらしく、勝手に伊賀に攻め入って国衆に惨敗し、家老の柘植保重を戦死させ、信長に叱責された(1579年)。
本能寺の変(1582年)の時は、四国遠征に出陣した弟の信孝に手勢を貸していたので、もともと不安定だった伊勢・伊賀を維持するだけで精いっぱいで、明智軍が撤退した後の安土城を接収しただけだった。しかも、なぜか、その城を焼いてしまった。