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外壁は白くなかった!!
クラーク博士は9か月しか札幌にいなかった!!
外壁は白くなかった!!
時計台は赤い屋根に白い外壁のイメージですが、現在の色になったのは1949(明治24)年のこと。塗料の分析によって何度か塗り替えられていることが分かりました。最初は茶色い屋根にグレーの外壁、クリーム色やグリーンの時代もあったそうです。
クラーク博士は9か月しか札幌にいなかった!!
札幌農学校といえば、クラーク博士を思い浮かべます。2階には銅像が設置され、演武場だったホールを見つめています。「Boys, be ambitious(少年よ大志を抱け)」という言葉は有名ですが、功績などについてはあまり知られていません。
クラーク博士はマサチューセッツ農科大学長で、日本が西洋の知識と技術を習得するための教師として招かれました。農学校では教頭のポジションながら、教育面はすべてクラーク博士が定めていました。
教育に尽力を尽くし、札幌に骨をうずめたイメージがありますが、実際の在任期間は9か月という短さ。もちろん途中でサジを投げたわけではなく、マサチューセッツ農科大学での仕事もあり、開拓使との契約上、短期滞在は最初から決まっていたことでした。
しかも1877(明治10)年に帰国しているので、1878(明治11)年に落成した演武場に足を運んだこともありません。市内には羊ヶ丘展望台にも銅像がありますが、こちらを訪れたこともありませんでした。
アメリカに戻ったクラーク博士は、マサチューセッツ農科大学の学長を辞めて事業をはじめましたが、共同経営者の知人が横領を繰り返して逃亡、設立から1年半で破産し、大きな負債を抱えました。さらに晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、59歳でこの世を去りました。
死の間際には「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も輝かしいときだった」と言い残したと伝えられています。