情報化の時代といいますが、情報の受け手である読み手の立場は情報過多で吸収しきれない状態ではないでしょうか?多くの方がエレベーター、電車、待ち時間などちょっとした時間の隙間にスマホと接触していますが、当然ながらニュースを見る方も多いかと思います。ただ、極めて限られた時間で吸収できる情報は1,2行程度のものです。
例えば山手線の出入り口にある液晶画面ではニュースを報じます。あるいは一部特急列車もニュースをテロップで報じていたかと思います。その情報量は極めて限定されていますが、情報を出す側としては目に留まるよう最大限の工夫をします。
かつてニュースを新聞で読んでいたころは編集技術で見出しを縦書き、横書き、フォントの大きさと種類を変える、強調する背景をつけるなど工夫満載でした。ネット記事になると差別化をするのは難しく、写真をつけたり、初めの1-2行だけ本文が読めたりする工夫をしています。
が、結局、多くのメディアは記事の見出しがなるべく人の注目を浴びるように小細工をする手法を選びます。これは英国のタブロイド紙と称される一般大衆の人が興味本位で読む新聞が発祥かと思います。日本でも駅のキオスクでタブロイド紙の見出しがわかるように置いてあり、電車に乗る人がちょっと買ってみよう、という購買意欲にかられるように仕向けています。
90年代、カナダである日本人の高尚な女性が「私はGlobe and Mailしか読みません。あなたはVancouver Sunなど低俗なローカル紙をお読みになるの?」と言われたのは衝撃でした。いわゆる高級紙と一般紙とタブロイド紙の棲み分けがあった時代です。ちなみに日本では高級紙は出来ず、ほぼ、一般紙とタブロイド紙だけです。
その後、ネット時代になり誰でも情報発信できるようになり、メディア媒体が増えすぎたことは高級、一般、タブロイドが一緒くたになり、読み手をより一層惑わしたわけです。
さて、今日は日経新聞の品格について少し述べてみたいと思います。確かに私は日経はよく読みますが、気をつけて読むようにしてます。それは「日経よ、お前もか?」と言いたくなるような強いトーンの見出しを打つこともあり、違和感を感じるのです。またそのトーンが的を得ているのか疑問な時もあります。