ちなみに、野党の「社会民主党」(SPO)のバブラー党首は、「わが国を分裂させているのはノーマルとかアブノーマルといった言葉ではなく、現実の分裂だ。国民の1%が国の富の半分を独占している現実社会こそ分裂しているのだ」と強調している。SPO党首の発言は正論と言わざるを得ない。

国民の生活は厳しさを増している。政治家たちは哲学論争をしている時ではない。インフレの高騰、エネルギー代の急騰で国民は苦しんでいるからだ。野党議員は、「国民党と緑の党の与党間の哲学論争は物価対策やエネルギーコスト問題など本当の問題をカムフラージュするものだ」と批判しているほどだ。

言葉は人を傷つける場合がある。他者を批判する意図がないのに、傷つける場合もある。それだけに、特に公人の立場にある政治家は発言に気を付けなければならないわけだ。

「ノーマル」ではなく、別の言葉だったら議論を呼ぶことはなかったかもしれない。先の州知事は後日、「ノーマルとそうではない人間と言うべきではなく、ノーマル(普通)な人間と過激な人間といえば良かった」と述べている。「ノーマル」という言葉はオーストリアではどうしても歴史と重なってしまうのだ。

そこで夏の束の間の論争で終わらせるのではなく、何が「ノーマル」かについて真剣に考えるチャンスと受けとることができる(「再考『正常化とは、自由とは何か』」2021年5月30日参考)。

新型コロナウイルスのパンデミックの時、ロックダウン(都市封鎖)、マスクの着用など厳しいコロナ規制下で国民は苦労した。コロナ禍が早く過ぎていくのを待ち望んだ。その時、国民もメディアも異口同音に「一刻も早くノーマルな日々を」と、新しいノーマルな生活に戻ることを願ってきた。その時、多くの国民は「ノーマルな生活」「ノーマルになりたい」といって「ノーマル」という言葉を使用したが、誰一人、政治家もメディアも「ノーマル」という言葉に反発したり、今回のように議論を呼ぶことはなかった。

ポスト・コロナ時の「ノーマル」はコロナ禍の「ノーマル」とは明らかに違う。「ノーマル」は「ノーマルではない」という反対語を意識しているから、状況によっては差別語と受け取られる。「ノーマル」を失う時、失った人は、その価値がより分かるものだ。

編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2023年8月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

【関連記事】
「お金くばりおじさん」を批判する「何もしないおじさん」
大人の発達障害検査をしに行った時の話
反原発国はオーストリアに続け?
SNSが「凶器」となった歴史:『炎上するバカさせるバカ』
強迫的に縁起をかついではいませんか?