それに続く、中世は商業の時代である。ローマ帝国が滅びても、地中海貿易は滞りなく盛んだったし、東ローマ帝国では河川を使った交易で東欧の開発も進んだ。イスラム圏では、サラセン帝国からオスマン帝国に至るまで常に交易は盛んだった。西欧でも11世紀の十字軍とノルマン人の活躍から文明化が進んだ。
中国では宋・元・明・清の時代に皇帝独裁・科挙による官僚制度のもとで学問や商工業発展が発展した。ただ、漢民族は海洋に余り興味がなく、日本には、ゆるやかに影響が及んだ。宋以降の文明が総合的に日本に及んだのは、14世紀になって勘合貿易や倭寇の跋扈で交流が深まった結果である。
15世紀からはルネサンスと大航海時代が始まった。大航海時代はイベリア半島でのレコンキスタの延長線上にあり、ポルトガル人やスペイン人は中国より日本に先に来た。そのお陰で日本は一気に遅れを取り戻した。
しかし、鎖国で中国に比べても西洋文明の取り入れは遅れた。江戸時代の日本は家康のやり方を踏襲するだけで大停滞。中国は康煕帝・雍正帝・乾隆帝という三賢帝(1661~1795)が続き、しかも、限定的だが海外に門戸を開いていたので新世界からの作物が入り、人口も経済も大発展した。
まさに、黄金の大清帝国と暗黒の江戸時代で明暗が分かれたことを日本人は忘れてる。今これが再現されようとしている。また、少し時代がずれるが、インドではムガール帝国がアクバルからアラウンゼーブ(1567~1707)の時代に黄金期を迎えた。
日本は1543年の鉄砲伝来から1639年に鎖国するまでが黄金期だが、その後は、中国に差を付けられっぱなしだった(いまその轍を踏みつつある。中国に負けっぱなしだった江戸時代を評価するような人がいる限りこの国は見込みない)。
西洋の大発展は、大航海時代とルネサンスに始まるが、このふたつは、必ずしも表裏一体ではない。ルネサンス以来、西欧で科学技術や民主主義が発展したのには、キリスト教の論理性、学校の充実、ノルマン人の集団行動と民主的な意思決定などいろんな理由がある。
中国との差は抽象的思考の重視だ。経験や感覚重視の中国人から地動説は出てこない。一方、ロシア人やインド人は抽象的思考には優れるが、実際的でない。
日本は西洋が産業革命や近代思想などで大発展した時期に馬鹿げた鎖国をしていたので世界最先進国から中進国に転落した。鎖国で植民地化が避けられたという都市伝説があるが、そもそも17世紀にはそんな危険はなかった。
また、科学技術だけでなく、ロシアがやってきたことも知らなかった。寒冷地での生活の仕方についての情報が入らなかったのも鎖国のせい。鎖国しなかったら、樺太もカムチャッカも日本のものだろう(ロシアは1648オホーツク、1711年に千島に。しかし、1771年にペニョフスキーが警告して、それに刺激されて、林子平の海国兵談などが出されたが、幕府はこれを弾圧。ウェストファリア体制における国際法も知らなかったので不平等条約を結ぶことになった。
中国は閉鎖的でなかったのだが、海洋でなく内陸の新疆ウイウイグルやチベット、中央アジアに関心が向いたので出遅れた。そして、アヘン戦争(1840~42)で銀が流出するようになり、経済が崩壊した。日本はイギリスが中国に先に行ってくれて良かった。
薩長土肥が成功したのは、豊臣時代の精神で生き続けていたから。市民階級のかわりになる階層も育っていたので富国強兵に成功した。なにも鎖国を続けようとしたのでなく、富国強兵をして主体的に世界へ打って出ようとしたのである。
もともと英国と戦ったのが薩長であるし、明治になっても薩長閥は常に英国を警戒し、むしろ、福沢諭吉や大隈重信など親英派と戦って独立を維持した(坂本龍馬は英国のスパイだったという陰謀史観があるが笑止千万。全体の流れをみないでつまみ食いするとそういうことになる)。
また、明治新政府の成功は、和魂洋才でなくひたすら文明開化に走ったこと。西洋人でなくても西洋的な文明国になれることを実証した。しかし、その後、和魂洋才とかいい出したので、中国との外交戦に負ける羽目になったのが、第二次世界大戦である。

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提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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