金属を木目状に加工する伝統技術「杢目金」を用いた立体作品を精力的に発表し、昨今、世界的に注目を浴びつつある金属彫刻家MADARA MANJI。
新進気鋭の現代美術家が、作品を通して表現する世界観とは? 現代アートに魅せられた理由とその可能性について。同氏が「すべての原動力」と断言する”想像力”と”探究心”をテーマに、現在のスタイルに至った経緯から今後目指す場所までを徹底取材した。

動物でありながら特異なDNAを持つ「人間」の面白さ
――今回初めて制作現場にお邪魔させていただいて驚いたのですが、芸術家のアトリエというより、まるで鍛冶屋の製作所のような雰囲気ですよね。作品制作においても、動物的な感覚というか肉体頼りな部分が大きいんじゃないかなと。
MADARA MANJI(以下、MANJI) 間違いなく含まれていますね。自分の場合、金属に1000度の超高熱と強烈な打撃を与えるというフィジカルに物を言わせる手法を取っているので、作品作り自体がめちゃくちゃ過酷なんですよ。どうしても体が動かないときなんかはテーピングを巻いて、マウスピースも噛んで、全力で叩き込んでいます。
でも、力任せに乱暴にやってるだけかというと、実際はまったく違って非常に理知的な作業も多い。基本的に作品は完成像から逆算して作るので、呻き声があがるような作業をしつつも、最初の金属を組む段階からコンマ数ミリ単位で調整しながら形にしていくんです。

――作品の全体イメージというのは、スケッチに起こしてから作っていくんですか?
MANJI 俺、美大行ってないからスケッチが描けないんですよ(笑)。「そんな作り方ある?」ってびっくりされることも多いんですけど、想像力やいろんな感覚が頼りです。知識も技術も感覚も、どれもが重要なので日々勉強と鍛錬ですね。定期的に山に籠って特殊強化合宿をしたりとか、いろんなことをしています。
――え、制作のために山籠りされるんですか……? それはどういった目的があるんでしょうか。
MANJI アトリエが都心にあってずっとここにいるので、もちろん都会でしか手に入れられない感覚値は多々あるんですけど、逆に言えば、他でしか得られないものっていうのもあるわけで。都市部では研鑽できないどころか、だんだんと訛っていく感覚を鍛え直したり、新しい発見を促すことを目的としています。
――合宿では具体的にどのようなことをされるのでしょうか。
MANJI 真夜中に原生林の中で待機するっていうプログラムがあって、俺これが大好きなんです。遭難しないようにロープを体に巻き付けて、深いところまで潜り込んで行って、最後は手持ちのライトも全部消すんですけど、そうするとめちゃくちゃ怖いんですよ!
まず平面の地面なんて一切ないので、岩なのか腐食した木なのか土なのか、よくわからないぐらい足元が複雑で平衡感覚が掴めない。さらに音と匂いの情報量がすごいんです。ものすごくうるさくて強烈な匂いがする。近くに獰猛な動物がいて襲われるんじゃないか?とか、あとはシンプルにお化けとか(笑)。暗闇の中だと、不確定な要素は想像力が補うので、その結果が恐怖として体感されるんです。
でも、ここからが面白くて、日中に同じポイントに行くと、あれだけ怖かったはずの場所が超綺麗で快適なんですよ。音がするほうを見ると動物が歩いていたり、鳥の鳴き声も美しく感じる。やたら滑るなと思って足元を確認すれば苔の上に立っていたりだとか、原因も特定できるじゃないですか。夜の森はすべてが恐怖そのものなのに、昼間の森に脅威を感じることはまずないんです。
結局、恐怖の正体は不特定の影に立つ自分自身の想像力なんですよね。あの耐え難い恐ろしさは自らの想像力が作り出しているわけで、恐怖の正体は自分自身。そういうことを学ぶことができるんです。

MANJI 想像力は時としてネガティブなものもたしかに生み出すけど、俺が作り出した恐怖に過ぎないのであれば、結局は自分次第だと思うんです。 困難を前にしたときに「できるわけない」と思うのも想像力。でも、それは事実ではなくて、ただの自分の想像でしかない。自分の想像力が相手なら負けることはないじゃないですか。恐怖や不安を前にしても、どうするかは自分で選択することができるんだから。
作品制作にあたって、肉体的な体力とか本能的な部分、数学的な設計する能力とか感覚的センスをすべて必要とするので、だいぶ複雑なことをやっているけど、単純に普段の生活のなかで感じるものも、山籠りを通して初めて学ぶような感覚も両方大事。その全部をフィードバックして、作品を作っているような感じです。
――お話を伺っていると、動物的な感覚に惹かれつつも、物語に触れるツールとして読み書きを覚えたというエピソード然り、その極端さというのは幼少期から一貫されているように感じるのですが、いかがでしょうか。
MANJI 人間ってマジで面白いなって思っていることがあって。こんな俺にも、繊細な子ども時代があったわけで、なんでこんなにいじめられなきゃいけないの? とか、どうして友達ができないんだろう……とか。そもそもまともに学校生活が送れないことがコンプレックスで、塞ぎ込むことも多かったんです。
十代のころは人間性だけの生き物か、もしくはただの動物か、どっちかになりたかったですね。そのほうが楽なので。もし後者のようになっていたら、今ごろ散々好き勝手して、人に迷惑かけまくっても何も気にせず生きていると思うんです。だけど、人間らしさを持っていたからそうはならなかった。
かといって、人間性だけで生きていけるかといったらそういう話でもなくて、どんなに理知的で品性があって社会性を持っていたとしても、生存本能や感情に振り回されたりして、きっと人間は一生動物的な感覚を消すことができないんです。それは、俺たちがアバターのようにデータで構成されているんじゃなくて、DNAというものを持っているから。
この動物っぽさと人間らしさがミックスされている感じがすごく面白いと思うんです。両方の突端の部分が好きなので、作品の根幹には想像力や精神があって、それを形成する手段が肉体によって行われる行為であるというのにも繋がっていると思います。俺は人間の理知ってものにも興味があるし、動物的な部分も手放したくないんです。