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前稿を受けて、引き続きヒッケルの「所論」を考えてみる。
(前回:「社会資本主義」への途 ⑥:“Less is more.”は可能か?)
「脱成長」と「非成長」が混同されているヒッケルは、「生物多様性の崩壊を防く」(同上:211)ためにも、「資源・エネルギーの消費を減らすこと」(同上:211)を「脱成長」として論じたが、「消費を減らすこと」は正しくいえば「非成長」ないしは「反成長」に含まれると考えられる。これは連載⑥の冒頭で接頭辞‘de’の扱い方で論じた通りである。
しかしヒッケルも訳者も類書と同様に「脱成長」の立場で、「大量消費を止めるための非常ブレーキ」を5点にまとめた。以下、順次検討してみよう。
(1)計画的陳腐化を終わらせる確かにすべての商品には寿命があるが、ヒッケルが指摘した通り、企業が意図的に「短期間で故障して買い替えが必要になる製品を作ろうとする」(同上:212)傾向は存在してきたように思われる。古くは白熱電球や蛍光灯、多くの家電製品もまた例外なしとはいえない。
その他ハイテク機器、家具、住宅、自動車などを取り上げて、現在提供されている商品の寿命延長をヒッケルが主張していることには私も賛成である。しかし、日常的な食料品や薬それに乾電池やインクリボンなどには「消費期限」や「耐久期限」があり、衣服や靴などでも素材の劣化は避けられない。
「生活の質の向上・・」(傍点原文、同上:215)といっても、本人のライフスタイル次第で資金・資源投入の優先順位が決まるのだから、すべてを「非効率性」(同上:214)として切り捨てるわけにはいかない。たとえば鉛筆でも、どのくらい短くなったら捨てるかは人それぞれで異なるはずである。
(2)広告を減らす誰でもが、新聞やテレビそしてネットでの広告が多いと感じるだろう。なにしろ広告業界の大手筋は東京オリンピックの式典全体までも仕切ったことで分かるように、規模の拡大も権力の集中も続いてきた。
「計画的陳腐化」と「認知的陳腐化」戦術ヒッケルは「計画的陳腐化」に関連させて、広告には「認知的陳腐化」戦術があると指摘した(同上:217)。これは広告により該当商品の「流行遅れ」を消費者に強く意識させて、「使い捨て」を促進する作用がある。だから、「広告の削減は、人々の幸福にプラスの影響を直接与える」(同上:218)。なぜなら、今の広告は、「人々に不合理な・・・・判断」(傍点原文、同上:218)をさせているからである。
ただ幸いなことに、インターネットで検索すれば、商品の評価は自分だけの判断でもある程度は可能な時代になっている。その意味で、「インターネットは・・・・・・広告を時代遅れにした」(同上:218)ところもあるが、この評価はあくまでも日常的に使用する商品に限定される。なぜなら、新型コロナウイルス感染の特効薬である「ラゲブリオ」や肺がんの特効薬である「オプジーボ」などの特殊な商品については、もちろん広告もされないし、医師の判断でしか使えないからである。
(3)所有権から使用権へ移行する「計画的陳腐化」と並んで、もう一つの資本主義の非効率性として、ヒッケルは「物の所有」を挙げる。個人からみれば単なる「所有」だが、販売する企業からすれば個人や法人が購入して「所有」してもらわない限り、売り上げ増加は望めない。これはすべての商品に該当するが、「使用権」が広がると、その分だけ「所有」が減るので、これが望ましいとヒッケルはいう。
クルマでも情報機器でも本でも「所有」も「使用」も可能であるが、そこそこに売れなければ、企業の利益が出ないし、従業者の賃金も払えない(もしくは上げられない)。
社会的ジレンマこれは一種の社会的ジレンマ論に陥りやすい。
たとえば、高額の本を市民図書館や大学図書館で揃えて、市民や学生が「共有」し、順番に「使用」するのはいいが、それだけだと、出版社や著者はやっていけなくなる。どうしても一定部数は市民・国民が購入して「所有」してもらわなければ、次の本が出せなくなるからである。
ヒッケル自身が実践できない提言さらに、個人資産「所有」を原則認めなかった社会主義(共産主義)が資本主義に敗退した事実によって、「所有権」から「使用権」への移行を特効薬とみなす方針こそ「非効率」の温床になるとも考えられる。
通常の日用品を買うために、半日近くも商店の前に人々が立ち並ばざるを得なかった社会主義諸国でのニュース映像は、今なお忘れられてはいない。
パソコンでもテレビでも自動車でもエアコンでも、「1台の機器を10家族が共有すれば、その製品の需要は10分の1になり、人々は時間とお金を節約できる」(同上:219)かもしれないが、生活の質は大幅に落ちて、個人でも社会システム全体でもウェルビーングは維持できないだろう。何より、ヒッケル自身が実践できないはずである。
最終的には自転車なのか?同じくヒッケルは「電気自動車への切り替えが必要」(同上:219)と断言するが、完全な切り替えは不可能である(杉山、2023)。なぜなら、EVのバッテリーの容量に限界があり、さらにバッテリーの原材料の価格高騰と鉱石の品質低下が進んでいるからである注7)。
かねてから指摘されてきたように、EV製造とりわけバッテリーの製造にはたくさんの鉱石や希土類(レアアース)を使うから、採石場や工場段階でも膨大なCO2が排出される。そのためEVは、CO2地球温暖化論者がいうような「地球に優しい」ことはない。
物流は自転車では不可能加えて、EVよりも「効率的」なのが「自転車」だとのべる(同上:219)。この感覚はさすがに人類学者だと感心するが、日本でいえば物流の9割以上をトラックが占めている現実は、「自転車」への切り替えでは解決しないというのが社会学者の視点である。
ヒッケルが住むロンドンの住宅を建設するための資材搬入でも、自転車だけではどうにもならないのではないか。
(4)食品廃棄を終わらせる確かに「食品廃棄は、エネルギー、土地、水、排出量に関して生態系に多大なコストをかけている」(同上:220)のは事実だから、この方向への「非常ブレーキ」には賛成である。ただし、「食品廃棄」が無駄遣いの象徴だからであり、「生態系への多大なコスト」になるからという理由は後回しである。
仮に「生態系への多大なコスト」が最大の判断基準ならば、国連会議への政府専用機での参加、IPCCやCOPの会議への民間航空機での集合、高速道路、海峡大橋、地下鉄、学校、病院、鉄道、ゴルフ場、水力発電所、地熱発電所、空港、マンション建設その他すべてが、それに該当するからである。
歴史的に見れば、原生林を切り拓くことも海浜を埋め立てることもまた「生態系への多大なコスト」でもあった。その意味でヒッケルの認識は狭い。
(5)生態系を破壊する産業を縮小するこれも一般論としては納得できるところがあるが、ヒッケルが「化石燃料産業」を特に取り上げたことを踏まえると、グリーン成長のためのクリーンエネルギー源といわれてきた「再エネ」もまた、火発・原発と大同小異の印象を受ける。何よりもヒッケル自身がクリーンエネルギーへの移行に関しては、ネオジムが2倍、銀が105%増、インジウムが920%、リチウムが2700%を上回ると記しているからである注8)。
この認識がありながらも、「クリーンエネルギーへと急速に転換しなければならない」(同上:290)という結論は、不思議な印象を与える。
おそらくクリーンエネルギー=「再エネ」という等式があるからだろうが、「生態系を破壊する」論点からすれば、火発・原発と同じく「再エネ」もまた同じだと私は判断してきた(金子、2012;2023)。
牛肉産業の抑制、民間航空の縮小は現実的か「非常ブレーキ」の事例には、牛肉産業の抑制が「危険な気候変動を回避する」(同上:222)という主張や、軍事産業、使い捨てのプラスチック製品、SUV車などの「縮小」などが挙げられている。
牛肉をニワトリや豆類に換えるのはいいが、牛乳そしてチーズやバターやヨーグルトはどうするのか。「気候変動を回避するため」(同上:222)に「牛肉」や関連商品を我慢できる人がどれくらいいるのだろうか。同時にそれらの製造販売に従事している人びとは世界中でかなりな数に上るが、簡単には転職できないはずである。
非現実性の極めつけその非現実性の極めつけは「民間航空も縮小する必要がある」(同上:222)だろう。
それならば、国連やIPCCやCOPの会議をまずオンラインでやったらどうかという反論が出るに違いない。なぜなら、たとえばCOP26では世界の首脳130名が航空機でパリに集まり、一週間ほど議論したが、そこで合意した「温室効果ガス排出実質ゼロの目標年」が2060年や2070年というのでは、「今は何もしません」としか聞こえないからである。
「成長すべきでないのはどの産業か」は誰にも決められない「これ以上成長すべきでないのは、どの産業か。規模を縮小したほうがよいのは、どの産業か」(同上:223)もまた、ヒッケル自身はもちろん誰にも決められない。国によって、あるいは経済水準や生活の質の程度に応じて必要な産業が変わるからである。
まして「ポスト資本主義の倫理」としてアニミズムを事例に引いて、アチュアル族とチェウォン族の「互恵主義」(同上:284)を「資本主義の論理」に持ち込んでも徒労に終わるだけであろう。
なぜなら、現実にG7など高度資本主義社会では、その最先端医療に有効な薬として、既述した「ラゲブリオ」や「オプジーボ」が使えるし、患者からも使用が求められているからである。
仕事はどうなるさて、5つの「非常ブレーキ」で資本主義に付随する「大量消費」を止めた後では、「仕事はどうなる」を考えざるを得ない。何しろ広告を削減し、牛肉産業を縮小して、民間航空も縮小せよというのだから。それでは、世界的にみても転職を余儀なくされる人々が急増する。
ヒッケルが提唱した「現在の資源とエネルギーの消費量を上限とし、・・・・・・毎年徐々に下げていく」(同上:224)手法はGN・GSともに世界的に見ても困難である。加えて、「公正かつ公平な方法」もまた見当たらない。ヒッケルにはできないだろうし、国連が行えるとも思われない。
すべての人の満足、すべての市民に均等分配は不可能ヒッケルは「必要な労働を公平に分配すれば、完全雇用を維持できる」(同上:225)として、「斜陽産業から他の職種への転職を容易にし、誰も取り残されないようにする」(同上:225)ことで、「職を求める人は皆、・・・・・・社会のためになる仕事に就くことができる」(同上:225)とした注9)。
その仕事の事例としてヒッケルは、「介護、エッセンシャル・サービス、クリーンエネルギーのインフラ建設、地産地消の農業、劣化した生態系の再生」(同上:225)を挙げた。
類は友を呼ぶ興味深いことに、斎藤はこのヒッケルの論文から「脱成長は成長を不要にするために潤沢さを求める」を引用して、「ラディカルな潤沢さ」を評価した(斎藤、2020:269)
その後に「ブルシット・ジョブ(クソくだらない仕事)」として、マーケティングや広告、コンサルティング、金融業や保険業を名指ししながら、「社会の再生産そのものには、ほとんど役に立っていない」(同上:315)と断言した。
批判するのは構わないが、ブルシット(bullshit)を使ったセンスには疑問が残る。なぜなら、それは卑語(vulgar、taboo)であり、原意は「牛のくそ」だったからである(『アメリカ俗語辞典』研究社、1975)。その代わりに評価したのが、エッセンシャル・ワークやケア労働であった注10)。