福田恆存は「私の保守主義観」と題した文章を、こう書き出した。

私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者とは考へない。革新派が改革主義を掲げるやうには、保守派は保守主義を奉じるべきではないと思ふからだ。私の言ひたいことはそれに尽きる。

そのうえで、こう書いた。

保守的な態度といふものはあつても、保守主義などといふものはありえないことを言ひたいのだ。保守派はその態度によつて人を納得させるべきであつて、イデオロギーによつて承服させるべきではないし、またそんなことは出来ぬはずである。

そして最後をこう締めた。

保守派は無智といはれようと、頑迷といはれようと、まづ素直で正直であればよい。知識階級の人気をとらうなどといふ知的虚栄心などは棄てるべきだ。常識に随ひ、素手で行つて、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか。

私も、そうした思いを込めて、6月16日に可決成立した「LGBT法」への疑問を、「産経新聞」(6月18日付朝刊)に寄稿した。「保守」派の議員諸侯を念頭において。

小林秀雄も借りよう。「知人からこんな話を聞いた。ある人が、京都の嵯峨で月見の宴をした」と書き出し、「この席に、たまたまスイスから来た客人が幾人かいた。彼等は驚いたのである。彼等には、一変したと見える一座の雰囲気が、どうしても理解出来なかった」と「お月見」の様子を描きながら、こう書いた。

この日本人同士でなければ、容易に通じ難い、自然の感じ方のニュアンスは、在来の日本の文化の姿に、注意すればどこにでも感じられる。(中略)意識的なものの考え方が変っても、意識出来ぬものの感じ方は容易には変らない。いってしまえば簡単な事のようだが、年齢を重ねてみて、私には、やっとその事が合点出来たように思う。新しい考え方を学べば、古い考え方は侮蔑出来る、古い感じ方を侮蔑すれば、新しい感じ方が得られる、それは無理な事だ、感傷的な考えだ、とやっとはっきり合点出来た。何んの事はない、私たちに、自分たちの感受性の質を変える自由のないのは、皮膚の色を変える自由がないのとよく似たところがあると合点するのに、随分手間がかった事になる。妙な事だ。(中略)お月見の晩に、伝統的な月の感じ方が、何処からともなく、ひょいと顔を出す。取るに足らぬ事ではない、私たちが確実に身体でつかんでいる文化とはそういうものだ。(「お月見」)

最後に、欧米では有名なニーバーの「冷静を求める祈り」も掲げよう。

神よ、変えることのできないものを受けいれる冷静さをわれらに与えたまえ。

変えることのできるものを変える勇気を与えたまえ。

そして、その両者を識別する知恵を与えたまえ。

われわれに必要なのは、こうした冷静さと、勇気と、知恵ではないだろうか。天を仰ぐ、祈りにも似た姿勢ではないだろうか。

間違っても、「知識階級の人気をとらうなどといふ知的虚栄心」ではあるまい。さる6月16日の出来事は、「保守」派議員らが見失ったものを、白日の下に晒す結果となった。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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