対策のコストベネフィット分析については、AR6-SPMのC.2.4に、実に「さらっと」記載されている。

曰く、

コストベネフィット分析は、気候変動による被害を回避する効果をすべて反映する能力に依然として欠けている。(中略)評価したほとんどの文献によれば、潜在的な被害の回避メリットを全く考慮しなくても、温暖化を2℃以内に抑えることによるグローバルな経済的、社会的便益は、削減コストを上回る(中程度の確信度)注3)。

とされている。

これは良いニュースだが、ここで言っているのは2℃目標を達成する場合の話である。では肝心の1.5℃目標を達成する場合のコストベネフィット分析はどうなっているのだろうか?

実は1.5℃目標の費用便益分析については、AR6-SPMのP26の脚注に小さく、

温暖化を1.5℃以内に抑える場合(のコストベネフィット分析)について、確固とした結論を得るような証拠はあまりにも少ない。1.5℃に抑制するコストは2℃に抑制するコストに比べて大きくなるが、一方で影響やリスクの緩和と適応の必要性の抑制というベネフィットは大きくなる注4)

と、当たり前のことを定性的、かつあいまいに記載するに留まっているのである。

これが「科学を根拠とした1.5℃目標」について、その科学的根拠の経典ともいえるIPCCのAR6が示した「科学的知見」なのである。既述のように、AR6によればカーボンバジェットは1.5℃と2℃では倍半分も違うので、オーバーシュートを考慮せずに1.5℃目標を達成しようとした場合、必要とされる対策の強度やスピードもけた違いに大きくなることは必至である。

2℃目標を達成するための2030年21%削減目標(GHG)なら、AR6-SPMのC.2.4にあるように、経済的な便益を維持しながら対策を実行することには、それなりに現実性があるように思われる。

しかし1.5℃目標のために30年43%、50年84%といった削減を実現する、はるかに野心的なパスウェイを実現しようとすると、いったい何が起きるのか? それについてはAR6-SPMのC.2.5に、いみじくも以下のように明記されている。

野心的な削減パスウェイは、既存の経済構造への甚大な、時には破壊的な変化と、各国内、各国間の分配に対する甚大な影響を暗示(imply)する注5)。

この記述が意味するのは、1.5℃目標を達成する対策は、それを実行する政治的、経済的コストが、現実の社会が耐えられないくらい大きくなったり(破壊的変化)、負担の不公平性の顕在化による各国間の紛争や、国際関係の不安定化を招くといった形で、気候変動リスクとは別の、社会的リスクをもたらす可能性を警告しているということだと読者は気付くべきだろう。

さらに言えば、AR6で評価された多くの削減シナリオは、世界が協調して一丸となって削減に取り組むことで、世界全体で費用最小化しながら効率的、効果的に取り組むことが、対策の実現可能性を高めるとしているのだが注6)、ロシアによるウクライナ侵攻や米中の厳しい経済対立を見ても、現実の世界は必ずしもそうなっていない。対策の費用も不公平性も拡大するリスクに世界は直面している。

世間では、IPCC AR6統合報告書が世界に投げかけているメッセージとして、1.5℃目標達成に向けた必要性や緊急性、またそれが極めてチャレンジングだが「技術的に」達成できる可能性があることばかりが強調されているが、そのチャレンジが、例えば2℃目標に挑戦するのに比べて費用対便益が大きくなるのか、またそもそも1.5℃目標を達成した場合の便益は費用よりも大きいのか?といった、読者が一番知りたいはずの情報については明確に記載されていない。

ここでいう読者とは、IPCCの報告書のサマリーが「政策立案者向けサマリー」とされてるように、政策立案者、つまり各国の政府なのである。

さて、ここまで書いてきた通り、筆者がAR6の各所に微妙な表現や確率的既述の陰に込められている科学的メッセージを読み、相互に関連付けることで理解した、政策立案者が理解すべき影のメッセージは、以下のように要約することができるのではないか。

様々な研究論文から得られる現在の科学的知見では、世界はGHG排出を2019年比で2030年までに43%、2050年84%削減することで、五分五分の確率で気温上昇を産業革命以前と比べて1.5℃に抑えることができる。ただしここでは、一時的に気温上昇が1.7~1.8℃までオーバーシュートした後に、負の排出対策により1.5℃に戻すシナリオも含まれている。

この1.5℃目標の削減対策は極めて野心的であり、対策を実行するためにかけるコストより、温暖化を抑制することで得られるメリットの方が大きいという、2℃目標実現の場合にそこそこ確信できる知見が、1.5℃目標の場合でも当てはまるかどうかを判断するには、科学的知見が足りない。

一方、1.5℃目標に向けた野心的な対策を実施すると、既存の経済構造への甚大な、時には破壊的な変化と、各国内、各国間の分配に対する甚大な影響が及ぶことが示唆される(それでも気温は5割の確率で長期的に1.5℃を超える可能性がある)。

さて、今般のIPCC AR6の「科学を根拠とした最新の知見」に、実はこうしたメッセージも密かに記載されているのですよと言われたとき、果たして世界の政策立案者たちは、1.5℃目標という野心的な目標に向けて、莫大なコストをかけて一心不乱に取り組んでいくという判断をするものだろうか?

注1)AR6-SPM B5.2による。ここでは1.5℃目標のシナリオ分析に仮定されている一時的な気温のオーバーシュートをどれだけ仮定したかについては記載されていない。

注2)この削減量はGHG全体であり、CO2排出削減量については、1.5℃目標で2050年99%削減、2030年48%削減として、いわゆる「30年半減、50年ネットゼロ」が示されている。

注3)AR6.SPM C.2.4:”Even without accounting for all the benefits of avoiding potential damages the global economic and social benefit of limiting global warming to 2°C exceeds the cost of mitigation in most of the assessed literature” (medium confidence)

注4)AR6-SMP P26 脚注50:”The evidence is too limited to make a similar robust conclusion for limiting warming to 1.5°C. Limiting global warming to 1.5°C instead of 2°C would increase the costs of mitigation, but also increase the benefits in terms of reduced impacts and related risks, and reduced adaptation needs.”

注5)AR6.SPM C.2.5: “Ambitious mitigation pathways imply large and sometimes disruptive changes in existing economic structures, with significant distributional consequences within and between countries.”

注6)AR6-SPM E.1.3: “Strengthened and coordinated near-term actions in cost-effective modelled global pathways that limit warming to 2°C (>67%) or lower, reduce the overall risks to the feasibility of the system transitions, compared to modelled pathways with relatively delayed or uncoordinated action.”

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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