◆寒川町とは

人の営みの最初の痕跡は約25,000年前。県内でも最大級、全国でも有数の規模とされる約5,000年前の縄文遺跡が眠る。太古より人々の生活と信仰の場。全国有数のパワースポット「相模國一之宮 寒川神社」が鎮座し、三本の川と広い空がある、歴史と文化と花の町。

初めまして。神奈川県のほぼ中央にある寒川町の観光協会から、この町の魅力をおつたえすることになりました。記念すべき第1回は、寒川町にあったといわれる鎌倉時代の武士の館について。800年以上も地域で語り継がれてきました。

目次
寒川町の800年前
なぜここに?「一之宮の梶原さん」

寒川町の800年前

さて、今から800年以上前というと、世は平安時代末期から鎌倉時代の初め。源氏が平家を滅ぼし、武士が政治の中心を担い始めた時代。寒川町のあたりは「相模國一之宮 寒川神社」の神領(神社の領地)であったといいます。寒川神社や相模川は、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』にも度々登場します。

源氏の棟梁 頼朝の側近として幕府成立に貢献した武将が梶原景時です。歌舞伎や川柳に登場することも多いのでご存じの方もいらっしゃると思いますが、この梶原景時が寒川町の一之宮地区に館を構えていたというのです。実際、800年以上も伝えられてきた堀跡などが地域に残っており、一帯は「梶原氏館址遺跡(寒川町No.11遺跡)」となっています。

なぜここに?「一之宮の梶原さん」

鎌倉幕府成立のキーマンが、なぜこの辺りに館を構えていたのか。まずは伝承地を訊ねてみましょう。

1. 梶原景時館址

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)
さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

寒川の梶原景時スポットのメイン。「一之宮館」の敷地の一角と伝わっています。旧大山街道に面した入口には鳥居があって、短い参道の先に小さな太鼓橋がかかっています。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

この太鼓橋のたもとから左に目をやると、側溝が東に延びています。館の内堀の跡と伝わり、後程ご紹介する「梶原伝七士の墓」へと続いています。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)
さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

右手には、今上天皇が皇太子として昭和54年(1979年)に館址に行啓あそばされたことを記念して植えられた梶の木があり、七夕のころには大きな葉をいっぱいに茂らせます。館址のシンボルです。

古の七夕の願いは和歌に託しこの葉にしたためたとか...

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

太鼓橋を渡ると、里人が景時を偲んで祀ったといわれる「天満宮」があり、伝承では館の物見櫓があったと言われています。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)
さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

敷地の北西の角に大正時代に建てられた「天満宮遺跡碑」があり、梶原景時に関わる伝承とこの碑建立の経緯が刻まれています。北側には、水路の水量の調節や堰き止めに使用した石材「角落とし」が残されていて、以前はこのあたりに川や水路が多かったことを物語っています。鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』(正治二年(1200)二月大六日壬戌の条)には、景時滅亡後の御家人たちの会話において、館の近くに橋があったという一節があります。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)
さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

「梶原景時館址」は初春には梅が香り、初夏には絶滅危惧II類の希少種ヒトツバタゴの木が白い花を咲かせます。地域の人が手入れをしてくれるおかげで、季節の彩が絶えることがありません。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

800年の伝承の地は、大きな楠がやわらかな木陰をつくり来訪者をやさしく迎える、町の「ほっとすぽっと」となっています。

2. 梶原史跡案内版

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)
さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

先ほど紹介した館址から、大山街道沿いを70mほど西へ行った「西町集会所」の入り口にあります。

景時没後800年にあたる2000年に、「寒川町梶原公顕彰会」が設置。現在は集会所としても使用されている薬師堂があり、お地蔵さまが祀られています。案内板には、景時の生涯と一之宮の伝承地・伝承がわかりやすくまとめられています。

3. 梶原伝七士の墓

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)
さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

ふたつの伝説が残る謎多きスポットです。「梶原景時館址」から旧大山街道を東に140mほど小さな看板がある敷地を奥に入ると、中世のお墓「五輪塔」など石造物がいくつも祀られています。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

ふたつの伝説とは、現在の静岡県清水区付近で討ち取られた梶原景時とその一族郎党を弔ったという説と、景時父子が討死して後、景時の奥方を護りしばらく信州に身を潜めていた家臣七人が、鎌倉に梶原氏の復権と所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場で自害してしまい、それを弔ったというものです。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

敷地の西から東へ、館址から延びる内堀の跡とされる側溝が走っています。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)
さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

お墓の横には「寒川町梶原公顕彰会」が創立20周年の記念事業として、景時の長男 景季の逸話「箙の梅」を題材に記念碑を建立しました。

4. 南部文化福祉会館(南部公民館)

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)
さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

地域の旧家で大切にされてきた、梶原景時に関する品々が展示されています。

伝えられた能面や調度品などは残念ながら時代が新しいもののようですが、「梶原景時」という武将が長く慕われてきたことが想われる品々です。

【南部文化福祉会館(南部公民館)の基本情報】

  • 営業時間:9:00~17:00
  • 休館日:第3月曜日及び年末年始
  • 公式サイト:南部公民館

5. 一之宮八幡大神

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

1697年の創立とされていますが、一之宮館の鬼門除けとして景時が建立したという説もあります。地域の鎮守様として親しまれています。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

8月第1日曜日には例祭があり、前日の土曜日の夜には「一之宮八幡大神屋台神賑行事」が斎行されます。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

町の無形民俗文化財として登録されるこの行事では、一之宮の「宿・東、北、西」の各地区の人々が屋台(山車)を曳きだし、夜の大山街道を彩り進みます。人力で180°方向転換する様子は勇壮です。各屋台には趣向を凝らした彫刻が施され、西町の屋台には景時長男 景季の逸話「箙の梅」の一場面が彫られており、前掲の「梶原伝七士の墓」の「箙の梅の碑」のレリーフは、この彫刻を基に作成されました。

さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)
さむかわ小旅vol.1「寒川歴史浪漫紀行Ⅰ ―800年の伝承の謎を追って―」
(画像=『たびこふれ』より引用)

また、拝殿の彫刻が見事です。龍の彫刻は神奈川県の名工「伊藤高芳」作で、大小の龍が生き生きと舞っています。

6. 相模國一之宮 寒川神社

寒川町といえば寒川神社。創建は1,600年前までさかのぼるといいます。

全国唯一 八方除の守護神として知られ、近年はパワースポットとしても注目を集めています。景時が生きた時代においても信仰の対象であり、『吾妻鏡』には、源頼朝の妻 政子が長男出産の折、景時の次男である景高が安産祈願に参詣したと記されています。 

>>寒川神社の公式サイトはこちら

このように、梶原景時とその一族が寒川町でも生きていたことを物語る「ものこと」が確かに残っています。私たちは、この「ものこと」がこれからも末永く伝承されることを祈り、尊敬と哀悼と親しみを込めて、この地で生きていた景時を「一之宮の梶原さん」と呼んでいます。