信長の作戦は、長篠城救出のみを目的とするものではなく、勝頼出陣を奇貨として、勝頼と決戦し、これを撃滅することを視野に入れていた(「細川家文書」)。信長は兵力を少なく見せかけて、勝頼を誘い出すことに成功した。
とはいえ、連吾川東岸の丘陵を占拠した勝頼も、ただちに渡河して敵陣に攻めかかったわけではない。勝頼とて、鉄砲と柵で守られた織田軍の堅固な陣地に突撃する危険性は理解していたはずである。にもかかわらず武田軍が突進したのは、信長の巧妙な戦術によって、そうせざるを得ないよう追い込まれたからである。
藤本氏が重視するように、織田・徳川連合軍は別働隊(酒井忠次隊)を組織して、ひそかに武田軍の鳶ノ巣山砦などを攻略して長篠城を解放したため、武田軍は挟撃される形になってしまった。既に武田軍本隊は織田・徳川連合軍と交戦状態に入っており(『信長公記』)、撤退を嫌った勝頼は信長の鉄壁の陣地に突撃を命じるほかなかった。
ただし歴史学者の平山優氏は、当時の合戦において柵や鉄砲で守られている敵陣に騎馬突撃をかける事例はしばしば見られると指摘し、勝頼のとった戦法は必ずしも無謀とは言えないと論じている(『検証 長篠合戦』吉川弘文館、2014年)。実際、長篠合戦における武田家武将の戦死者のほとんどは退却時に発生しており、織田軍の一斉射撃によって武田軍が壊滅したという理解は正しくない。
加えて平山氏は、長篠合戦が日の出から未の刻(午後2時ごろ)まで行われたことに注目し、武田軍が単純な騎馬突撃を繰り返して織田鉄砲隊の餌食になったという通説を批判している。以前から武田軍は騎兵と歩兵による連携攻撃をしばしば用いており(『甲陽軍鑑』)、騎馬武者による密集突撃だけに頼っていたわけではない。
従来、織田の鉄砲隊と武田の騎馬隊という対立構図が強調されてきたが、織田・徳川軍と武田軍には明確な質的差異はなく、ほぼ同質の戦国大名の軍隊であった。織田軍が兵農分離の軍隊であったという説は現在では否定されている。
平山氏が指摘するように、武田軍も信玄時代から鉄砲衆を活用しており、長篠合戦でも武田の鉄砲隊は織田・徳川軍に打撃を与えている。鈴木氏も2001年に藤本氏・藤井尚夫氏との座談会において「当時の軍隊の編成なんてのは、武田も織田、徳川も、みんな似たり寄ったりだと思います。だから、武田の騎馬隊、騎馬軍団と言うけど、もし、騎馬武者がある程度いれば騎馬軍団と言うのなら、徳川も織田もみんな同じです」と発言している(『歴史読本』2001年12月号)。
結局、長篠合戦で織田信長が勝利した最大の要因は、兵力・火力において織田・徳川軍が武田軍を圧倒していたことに求められる。〈織田信長=新戦術の考案者=革新〉と〈武田勝頼=旧戦術の遵守者=保守〉の対決という図式は成り立たない。藤本氏の言葉を借りれば、長篠合戦を「一種の異種格闘技」とみなすのは誤りなのである。
しかしながら、三段撃ちの考案者でないにせよ、織田信長が優れた軍人であることは疑いない。畿内での本願寺・三好との戦いを途中で切り上げてでも大軍を率いて長篠方面に急行した戦略眼、砦の攻略と信長の撃滅との間に明確な優先順位を定めなかった桶狭間合戦における今川義元と対照的に長篠城の救出よりも武田軍主力の撃破を優先した的確な作戦、兵力を少なく見せて勝頼を誘い出したり別働隊に武田方の砦を攻略させて勝頼の後方を脅かしたりといった巧妙な戦術、どの次元においても信長の軍事センスは際立っていた。
三段撃ちのような分かりやすい物語に寄りかかるのではなく、史料に基づいて織田信長の偉大さを明らかにしていく作業が今後求められよう。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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