『長篠合戦のぼりまつり』での再現Wikipediaより

三段撃ちによる間断ない一斉射撃が織田信長の勝因でないとしたら、真の勝因は何か。鈴木眞哉氏は、長篠合戦は「一種の攻城戦」だったと論じる(『鉄砲と日本人』洋泉社、1997年)。鈴木氏によれば、織田・徳川軍は単に馬防柵と多数の鉄砲を用いただけでなく、土塁や空堀を構築して武田軍に備えていたという。「三段撃ち」ではなく、この強固な「陣城」(「真田宝物館所蔵文書」)、すなわち野戦築城が武田軍を撃退し得た大きな要素である、と氏は主張する。

(前回:大河ドラマ『どうする家康』解説③:鉄砲3段撃ちはあったか(前篇))

ただし鈴木氏が織田軍の「陣城」の遺構と推定した長篠古戦場跡の土塁・空堀らしき地形は、現在では明治以降の開墾の跡であるとする説が有力である。織田軍が野戦築城を行っていたという見解は疑わしい。

藤本正行・鈴木眞哉両氏が両者の勝敗を分けた要素として最重視するのは、兵力である。藤本氏は「武田軍の敗因の第一は兵力である」と結論づけているし、鈴木氏も「根本論をいえば、相手方の三分の一程度の人数しかなかったと思われるのにあえて城攻めに等しいようなことを仕掛けたのが武田方の最大の敗因であった。孫子の兵法の昔から、守備側の何倍もの兵力を持たない限り、攻城などすべきではないというのが東西を通じての鉄則である」と語る。

藤本氏は織田信長の用兵にも注目している。信長が兵力を少なく擬装し、武田勝頼を油断させたことが勝利につながったというのだ。長篠城を救援するために出陣したはずの信長が城の手前で進撃を停止したため、信長軍の兵力が少なく臆していると勝頼は誤解してしまった。このため長篠城を包囲していた勝頼は、信長・家康との直接対決を企図して、長篠城を押さえる兵を残して本陣を医王寺から連吾川(連子川)の東側の丘陵に移動した。

信長が本陣を東方の敵から見えにくい設楽郷近辺の窪地に置き、滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀の軍勢のみを前線に進出させたことも、勝頼の誤断を誘った。ちなみに信長は決戦段階で前線の高松山に移動しているので、信長が本陣を後方に置いたのは安全のためではなく、兵力を少なく見せるための戦術であったことは明らかである。