憲法に保証されている権利と民法にある権利を踏まえれば、国家といえど個人の内心に踏み込むことは出来ないだろう。いかにマイノリティとはいえ、特別扱いをしてはならない。
つまり個人の生きたいような人生観を誰も否定はできないし、自分の生き方を他者に押し付けることも出来ない。要はそういう人もいると認めて、自由にすればいいのだ。
マイノリティの過剰な権利保護と法的保護は、それ自体が差別を生むことになる。そんな簡単な理屈も分からないのだろうか?
有名人が自分の生き方を表現したからとて、それは違法で無い限り、勝手にすればいいし、それをとやかく言うことも出来ない。
一方で、仮にマイノリティである自分を基準にして、過剰に自分たちが差別されていると叫び権利保護を訴えることも間違っている。それを民主主義とは言わない。マイノリティを過剰に保護する社会になったら、それは歪な社会となるだろう。
現実に欧米ではマイノリティの過剰な保護を優先するあまり、公の場で子供たちの眼に触れるような場で、LGBが過激なセックス表現をしたりすることがまかり通っている。マジョリティにとって、それはただの変態行為でしかない。その変態行為を子供に見せることの意味が、果たしてどこにあると言うのだろう?
また、同性愛カップルが代理母に高額なお金を払い子供を産んでもらうようなことをやっている。それらを倫理的、医学的に乗り越えるだけ人類は醸成されてはいない。生命をお金で買っているのだ。それが異性間同士の生物学的に認められているならまだしも、同性愛はそもそも動物学的に間違っている。同性間で生命が誕生することはない。
その最低限のラインを越えて、生命の誕生をも金銭で買うことは、生命の原理に反するとは言えないだろうか?
私は差別して良いと言ってるのではない。同性愛で生きて行きたければ好きにすれば良い。有り体に言うと、どうやったら気持ちがいい性欲を満足させられる行為になるか?を追求した結果、男性が男性の肛門に性器を突っ込むような性行為に走ったのだ。また、女性同士なら何らかの器具を使った性行為が気持ちいいと思っているから、そうしているのだ。それは本人同士が好き勝手にすればいいだけの話で、そんな普通の感覚からすれば変態行為を、わざわざ他人に見せてどうしたいというのだろう?
そんな趣味嗜好の世界に権利保護を加えてはいけない。つまり、違法行為でない限り、放っておけばいいのだ。
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以降、
・思想信条の自由と表現の自由 ・マイナンバーは行政サービスを受ける国民一人一人の命のナンバー
続きはnoteにて(倉沢良弦の「ニュースの裏側」)。
提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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