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有名なタレントが、SNS上の誹謗中傷が原因と見られる心身喪失状態で自裁の道を選択したことが報じられ、ショッキングなニュースとして列島を駆け巡った。
その前には、歌舞伎役者が両親を伴って自殺を図ったこともあり、有名人の「公」と「私」の部分について、メディアや一般の人々のSNSはどう取り上げるかが焦点に上っている。
個人の活動と個人の内面の関わりについては線引きが難しい。
公に活動を行っている人の「私」の部分への批判はどう受け止め、どう対処すべきかの判断をどちらに委ねる「べき」かは、本当に難しい問題だ。
批判に晒されているように、自分の価値観とは相容れないから、著名人の批判することは、私はあって良いと思っている。何故なら、著名人はそれだけの影響力を持っているからだ。その発言が政治的なものを伴っていたり、世論を分断するような発言なら尚更で、それに対して賛否が分かれたとしても、その賛否自体は当然、予測される範囲のものだろう。
嫌なら、意見表明しなければいいのだ。
仮にそれが「私人」としての内面や生き方の問題であったとしても、その内面を表現したことで公で活動していれば、そこに線引きは難しい問題となる。
繰り返すが、多分に政治的意味、世論を分断する意味の含まれた発言と行動なら、それは批判の対象になることは避けては通れない。
言葉は悪いが、嫌なら公の場から退場するしか無いのだ。
ただし、批判には批判のやり方があり、越えてはいけない「則(のり)」は存在する。人間の尊厳や個人の権利を否定するような批判は避けねばならないし、必要以上に個人の内面に踏み込んだり、それを否定することはダメだ。
私は以前から、LGBTに関しては、医学的に性同一性障害が証明されたT以外は、個人の趣味の範囲だと指摘してきた。先天性の性同一性障害ならともかく、個人の趣味嗜好の範囲で気持ち良さの追求の結果がLGBだと考えている。巷に溢れている議論の中で、LGBTへの議論が噴出するなか、明らかな性同一性障害で苦しんでいる個人ではないケースは数多く存在するし、医学的に実際に証明されなければ、後天的なものだと言わざるを得ない。
個人には思想信条と表現の自由が保証されているので、要はやりたければやりたいようにすればいいだけの話で、その個人の趣味嗜好の世界を法律で保護することはおかしい。それなら、異性間の恋愛を好む人にも法的保護を加えなければならないことになり、そうなると個人の自由が国家によって抑制、侵害されることになりはしまいか?