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会長・政治評論家 屋山 太郎

日本学術会議は菅前首相が6名を欠いたまま名簿を決定、組織については後日、検討することになっている。政府内では公平を期した会議ができるか、それが無理だから閉鎖すべきだとの議論で決着がつかない。

私は文芸春秋73年11月号に「原子力船むつと日本学術会議」を特集し、同会議の共産党色を追及して以来、「改革」を見つめてきた。改革によって共産党色が薄まるとか消えるなら再生も可能だろうと思ったからだ。

慶応大学に加藤寛氏という経済学者がいて、この人が学会、政界に力をもっていて改革するというのだ。当初の問題は「原子船むつ」の建造を研究するかどうかだった。学術会議側は当然、軍事研究には反対の立場である。しかしむつの研究をやっていたら、現在の原子力の技術は世界最高までに達していたと想像できる。世界一安全でCO2を出さないエネルギーの開発もできたろう。

半導体は民間開発から軍事技術に開発し、一国の命運を握る重要性を持っている。当時から一級の学者は「軍用はやらない」という偏った見方が学問を貶めていた。「教え子を戦争にやらない」という単細胞の学者が世にはばかった。

当時、学術会議は、政府の方針など関係なく単独講和に反対、再軍備や軍事研究に反対、破防法に反対、大学管理法反対、教育二法反対、警職法反対、安保改定反対、筑波大学法反対と、戦後の大きな改革にはすべて反対している。

会員は30名ずつ7部あって210名。

筑波大の大島康正教授の体験だが、初めて会員になった日、日共のオルガナイザーと言われたF氏に上野の中華料理屋に呼ばれてF氏の座長然とした姿に接した。F氏は、Aはこういう質問をするからBがこう受けろ。Cはこう言うからDはこう言えと質問と答弁を教える。大島氏は日共とは何の関係もなかったのだが、「オイオイ、日共の手口は大変なものだぞ」と教えてくれたものだ。

日共の熱意によって学術会議の中に占める日評(日共の評学者会議)、或いは左翼系学者の比率は急速に増えた。210名の会員のうち、82年は27.5%だったのが、85年には35.2%に増え、88年には39.5%(この数字は治安当局の調べではもっと高くなっている)。