佐久間信盛 『長篠合戦図屏風』成瀬家本より

8月2日に信盛さまは、顕如さまの子で最後まで抵抗していた教如さまの本願寺退去を検視する勅使として、松井友閑と共に再び同行されました。ところが、25日、信長さまから19ヶ条の折檻状をもらったのでございます。

内容を簡単にまとめると、石山本願寺相手に戦も調略もせず消極的で、光秀、秀吉、勝家のような成果を上げていないし、信長の意見を聞きにも来なかった。三方ヶ原の戦いでも兄弟・身内やしかるべき譜代衆に一人も死者をだしていない一方、平手汎秀を見殺しにした。

各地の武将を与力につけたが活かしてない。家康の伯父の水野信元が武田に通じていると信盛がいうので成敗したのち、刈谷城をやったのに、水野の旧臣を使わずに追放し、新規に召し抱えもせずに金銀を貯めているなどもってのほか。

内容はもっともと言えば、そうなのですが、引退させるくらいならともかく、追放までするのは酷すぎる、秀吉も今はいいが将来は大丈夫かと心配になりました。

のちに、明智光秀さまが謀反をされたのも同じ気持ちからだろうと思うのです。信盛さまは、結局、翌年に熊野のほうの温泉で療養しているうちに亡くなりました。

ともかく、佐久間信盛は分かりにくい人物です。三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊の7ヶ国の与力をつけられていたというのですが、居城はどこだったのか記事を見たことありません。

尾張での本拠は熱田の南東にある山崎城、あるいは鳴海城ですが、近江の永原城(野洲市)、三河の刈谷城、摂津の天王寺城も居城です。

※ 追放されたあとの佐久間信盛がどうなったのか、不明である。熊野方面で死んだらしいが、子の信栄が2年後に赦免されているので、古参役員が退職金なしにクビになったといったところ。嫡子の信栄は、本能寺の変の年に岐阜の信忠の家臣として取り立てられ、信雄にに仕えたり、秀吉のお伽衆とし、子孫は旗本となった。江戸時代の旗本には、佐久間姓の者が多くおり、彼らの一族のようだ。軍学者である松代藩の佐久間象山も一族だ。

※ 佐久間信盛と一緒に追放されたなかには、林貞秀(佐渡守。信長が子どものときから仕え、筆頭格の家臣だった。昔、弟の信行を跡継ぎにしようという陰謀に加担したのが理由だった)、安藤守就(西美濃三人衆の一人)、丹羽氏勝(丹羽長秀とは関係ない)がいる。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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