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「【どうする家康】嫡男・信康は切腹、家康は「残る子たち」をどう扱ったのか?」という記事を書いたがここで紹介したい。

家康には、11男5女がいた。そのうち夭折したのは、七男、八男と四女、五女である。この記事では、主として男子について書いたのでご覧頂きたいが、家康がいちばん気に入っていた男子は、10男で紀州藩祖の頼宣だろう。

和歌山県立博物館蔵 紙本著色徳川頼宣像(南龍公神影図)

十男の頼宣と十一男の頼房の母は同じで、関東の名門の出である。未亡人ばかり側室にしていた家康だが、中年になって珍しく若い女性を側室にした。

頼宣は、大坂夏の陣のときに先鋒を希望したが断られ、またの機会もあろうと慰められたとき、「私の14歳は二度とない」と悔しがって家康を大喜びさせるなど、聡明で勇猛で家康から非常にかわいがられたようで、自分の隠居所である駿府城の城主にしている。

しかし、家康の死後は、秀忠や家光に疎んじられ、駿府を取り上げられて和歌山に移された。

また、幕府の転覆を企てた由井正雪の乱のときは、彼らが頼宣の書状をもっていたことなどから「関与が疑われて」、10年間帰国を禁じられて江戸にとどめられたりしている。

一方、娘たちと信康の遺児である二人の娘については、この記事にもう少し補足して紹介してみよう。

信康の同母妹である亀姫やその子どもたちへの待遇はもうひとつである。亀姫を東三河の土豪に過ぎない奥平信昌に与えたことは、瀬名や信康の神経を逆なでしたことは間違いなく、これが瀬名と信康が家康に反逆することにつながった一つの原因とみられる。

信昌は関ヶ原の戦いのあと美濃加納10万石で終わった。長男の家昌はいったん宇都宮藩主となって別家のようになり、加納は三男忠昌が引き継いだが、断絶して家昌の子孫が入り、子孫は豊前中津藩主となった。

また、三男の忠明は家康の養子になって、大坂夏の陣の後の大坂城代となり、子孫は武蔵忍藩主となった。