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国立歴史民俗博物館研究報告第211集の杉井健氏の論文「弥生時代後期集落の消長よりみた古墳時代前期有力首長墓系譜出現の背景(なぜそこに古墳は築かれたのか)」には、熊本県の前方後円墳の分布に関して、

前方後円墳の築造にはヤマト政権の政治的意図が働く場合があり、ここでも農業共同体として決して優位とは思えない宇土半島の基底部(熊本平野南端)に前方後円墳が築造されている

という報告が見られる。杉井氏の議論はそこで停止しているが、この考古学上の事実は、次の伝承資料と非常によく符合しているように思う。

① 肥前風土記にある建緒組説話:肥後益城の朝来名峰に集まり弥生民を脅かした土蜘蛛(縄文系)を討伐した建緒組(タケオ・クミ)を崇神天皇が初代の火国造に任命した。

② 景行紀の九州巡幸説話:日向の熊襲の八十梟師とその姉娘・市乾鹿文を誅殺し、妹娘の市鹿文を火国造に任命した。

当時、前方後円墳の築造はヤマト政権傘下の首長層のみに認められていたと思われるので、宇土半島基底部にある9基の前方後円墳のうち、290年頃に築造された最初の前方後円墳である城ノ越古墳は建緒組の墓に、330年頃に女性首長を埋葬した向野田古墳は市鹿文の墓に引き当てることができる。すなわち崇神の活躍期は3世紀末から4世紀初め(280年~)、景行の活躍期は4世紀前半(320年~)と推定される。

この場合、重要なのは、火国造・市鹿文が熊襲の娘であることである。もしこの地域が北部九州の倭人勢力の土地であれば、熊襲を国造に据えることはまず考えられないので、熊本平野が、熊襲ないし熊襲と同族の土地であったという推論が成立し、城ノ越古墳の被葬者・建緒組もまた熊襲ということになる。クミはクマの音韻変化と思われる。

個人的には、古代九州の住人は倭人/肥人/土蜘蛛であったと思う。土蜘蛛は縄文系の在来民で、倭人と肥人は中国の江南辺りから渡ってきて在来民の一部を取り込んだ稲作農耕民である。原初の倭人と肥人はともに百越族で、黄海-朝鮮半島経由あるいは東シナ海経由で九州島に渡来したと思われる。彼らはほぼ同じDNAと言葉をもっていたが、渡来の過程で大陸の人文的な影響を受けた倭人と、影響を受けず比較的オリジナリティを保った肥人に別れたようだ。

当初、肥人が薄く九州全土に拡がり、その後、倭人が北部九州に渡来し、その生産能力をもって西日本全域に拡散したと思われる。熊襲は南九州(熊本南部/宮崎/鹿児島)に住みついた肥人の呼称で、漁労や狩猟に長じ在来民との確執で鍛えられた稲作・畑作民であった。

一般にクニの規模に対する認識は過剰である。クニは郡より小さく、倭人伝にいう倭の30ヶ国は北部九州とその周辺地だけで十分収まるはずである。倭人伝の文脈から見て、邪馬台国(倭人)は狗奴国(肥人)と境を接し、卑弥呼晩年の邪馬台国は戦時体制にあったと思う。邪馬台国連合は北部九州とその周辺に拡がり、邪馬台国本体は筑後川流域にあった。一方狗奴国は熊本北部(菊池川・合志川・白川流域)に拡がっていた。