ところが長年東大、京大と言った日本最優秀の学生のみをキャリア組として採用し続ける省庁のキャリアシステムは東大をピラミッドの頂点にしたわけです。(最近の採用大学は多様化してきています。)その頂点は崩しようがありません。
なぜなら学歴であり、2つ目の大学に挑戦する気構えがない限り、そして年齢的な点も踏まえればどれだけ能力があってもそのキャリアを覆すことは絶対不可能だからです。それは優秀だろうが、出来損ないだろうが、誰も追いつけない、追い越せない砂上の楼閣にすらなりうるわけです。また、ノンキャリアは入省した時からどこまで上がれるか、明白に決定づけられています。そんな夢も希望もない職場で改革的、創造的な仕事ができるわけがないのです。
ではなぜ、日本はピラミッドが好きなのか、山脈ではなぜダメなのでしょうか?個人的には共同体の長の発想が原点ではないかと考えています。つまり、長に対する信頼は絶対であり、長もそこを踏まえたリーダーシップをとる絶対的関係が構築されることでトップ以外の人は「一任」体制となり、その時点で自己判断を放棄するのです。放棄しているのですから何かあれば文句だけを言えばよいわけです。儒教的要素も当然あり、年長を敬う傾向は未だにあるでしょう。
これは今日の体制と全く変わりません。日々の生活で何かあれば行政や政治家に文句を言うのです。自分で工夫するわけではありません。「それは自分の仕事ではない」という考えになるわけです。
では山脈になぜならないか、ですが、これは私にはまだ答えが引き出せません。日本では「亜流」と言う言葉がありますが、「亜流」から「主流」にはなりえない社会構造なのかもしれません。利権もあるし、社会構造が「主流」を基盤に出来ているので新しい社会に不安だらけなのです。マイナンバーカードについてテレビの討論会で偏向報道かと思わせるほど「稚拙だ」「失敗だ」と大批判オンパレードでした。つまり、型を変えることができない、よって複数の主流が生まれるような素地がない、と言うことかもしれません。
ピラミッド型は絶対不変の社会においては強固で安定感があります。一方、日本を取り巻く問題は山積し、経済的にも長期凋落傾向を止めることはできません。ここを思えば日本的ともいえるピラミッド社会が変貌する時なのかもしれません。
では今日はこのぐらいで。
編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2023年6月26日の記事より転載させていただきました。