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6月23日は沖縄慰霊の日だ。

沖縄というと以前読んだ佐野眞一「沖縄 誰にも書かれたくなかった戦後史」を思い起こす。中でも、革新系知事だった大田昌秀にインタビューしたくだり。

大田は沖縄戦で「鉄血勤皇隊」の一員として、筆舌に尽くせない体験をして生き延びた経歴だそうだ。その大田が米軍施政下の沖縄でガリオア資金によって設けられた留学制度(沖縄ではこの経験者を「米留組」と呼ぶそうだ)でシラキューズ大学の大学院に留学したことをきっかけに、アメリカという国と国民に強い感銘を受け、同時に強い学問的関心を持ったという。

…特に興味を覚えたのは、沖縄戦の機密文書だった。

「沖縄戦に関する機密文書に片っ端からあたりました。その結果、沖縄戦に参加した部隊には、沖縄の非戦闘員を救出するためにだけ編成されたチームがあることがわかった。一つの部隊に少なくとも八名か十名、多ければ二十名くらいついていた。 これがピーク時には全部で五千名いたという記録がちゃんと残っているんです。私は沖縄戦で、アメリカの兵隊が沖縄の原住民を大勢助ける場面を随分見ています。もし、そういう部隊がいなければ、沖縄の住民の犠牲は、間違いなく三倍から四倍にふくれあがっていた。だから、あのとき、戦場で不思議に思った理由が、その勉強を通してやっとわかったんです。」(同書411頁)

佐野はそんな大田を「反軍、反基地だが親米」だったと評している。大田だけではないだろう。少なくとも沖縄戦を生き抜いた世代のウチナンチュには、大田のように米国に対してアンビバレントなメンタリティの持ち主がいたのだと思う。