愚者による無益な批判
その逆に愚者による無益で誰の得にもならない批判を取り上げたい。その本質は、「自分を利するために相手を利用する批判」である。
どういうことか? たとえば自分より総合的に実力が劣る初心者を見つけて「あなたは間違ってる。引き換え、自分はこういう実力者なのだ」と相手のダメなところを貶め、代わりに自分の実力を周囲に見せつけるという類のものだ。これを建設的批判と同じカテゴリにおいてよいかは分からないが、やっている本人としては「言論の自由による批判だ。ありがたく受け取り給え」となぜか上から目線であることが多い。
このような批判の何が問題かというと、相手や一部始終を見ている周囲には何のメリットもない点である。ダメだと頭ごなしに言うだけでは言われる側も自信を失うし、周囲の印象も悪くなる。それでいて自分ひとりで自画自賛を披露するのでは、実は言っている本人も時間とエネルギーを使うだけで何の生産性もない。つまり、ただただムダにエネルギーと時間を消費して、言われる相手と周囲を疲弊させているという構図である。黙っていた方がまだいいだろう。
それに考えてみれば、誰しも最初は必ず初心者だったわけで、相手の実力が下だと嬉々として誇る態度は相当にチャイルディッシュに感じてしまう。加えて、相対的な評価で喜んでいる間は総合的な実力は低いと言わざるを得ない。なぜならどんな分野でも上には上がいるからであり、相対的評価なら自分より上の実力者ともフェアに比較して然るべきであろう。一生懸命、自分より下を探している姿に心理的余裕さは微塵も感じられず、人としての成熟度も高いとは言えないだろう。
つまり、愚者による無益な批判は何の生産性もないと言えよう。自分はこうならないように気をつけたいと意識している。また、無益な批判を受けて心を傷つけないよう、批判の属性を理解した上で咀嚼するように心がけている。
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自分は批判するよりされる側にいたい。こっちの方が圧倒的にメリットが多いからだ。貴重な時間とエネルギーを使って自己満足な批判をし続けるのは一度しかない人生の使い方としてはもったいないなと感じてしまう。批判が好きな人は趣味で終わらせず、プロの批評家になればいい。やっていることは同じでも、プロなら少なくとも経済的メリットは享受できる。最も、それで周囲からリスペクトまで得られるかはまた別の話である。
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