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天才セナと初の日本人レギュラードライバー中嶋 悟
ホンダへ2勝をもたらし、ホンダ1-2-3-4フィニッシュも!
天才セナと初の日本人レギュラードライバー中嶋 悟

ロータスへのホンダエンジン供給は、単に「ホンダエンジン初の第2カスタマー」というだけでなく、その後のホンダと日本にとって重要となる、2人のドライバーとの出会いがありました。
それがF1史上最高のドライバーと称される1人であり、「天才」、「音速の貴公子」といった2つ名を持つ偉人、若き日のアイルトン・セナとの出会いであり、そして日本人初のF1レギュラードライバーとなった、中嶋 悟の加入です。
1984年にトールマンからF1デビュー以来、直4ターボのハートエンジンで戦闘力が劣るTG184で2位(モナコGP)、3位2回という腕前で翌1985年にロータスへ引き抜かれ、信頼性の低いルノーV6ターボでも1986年まで2年連続で2回優勝していたセナ。
言うまでもなく後のマクラーレン時代にはプロストとともに第2期ホンダF1で無敵の黄金時代を築き上げた、伝説級の名ドライバーです。
そして中嶋はその才能を認められたホンダに支援され、日本だけでなくヨーロッパのF2でも揉まれて実績を積み、満を持してのロータス入り。
1975年の鮒子田 寛に始まり、1976〜1977年のF1日本GPを経て何人かいたスポット参戦ドライバーとは意味合いが異なる、日本人初のF1レギュラードライバーでした。
しかも1982年には全日本F2のJPSトロフィーで勝った副賞としてロータス92のテストをした縁もあるロータスへの参戦であり、1984年以降はホンダエンジンを積むウィリアムズFW10のテストドライバーも努めていた中嶋には期待がかかります。
そして何より、中嶋のフル参戦で日本全体が大きく動き、1987年からのF1日本GPレギュラー開催、フジテレビによる全線放映も実現したことにより、日本人にとって「F1」が一気に身近な大イベントとなりました(※)
(※筆者もそれでF1を知ったクチですが、日本人F1ファンにとっては「フジテレビ以前か以降か」で、知識や価値観も大きく異なるようです)
ホンダへ2勝をもたらし、ホンダ1-2-3-4フィニッシュも!

さて1987年シーズン、ウィリアムズFW11Bと同じホンダRA167Eを積んでデビューしたロータス99Tですが、保守的なウィリアムズと異なり新技術への果敢なチャレンジでも知られた名門ロータス、この年も「アクティブサスペンション」という武器がありました。
コースレイアウトに応じてダンパーを電子制御して車高や特性を変化させ、理想的な空力や操縦性を実現するアクティブサスペンションは、後年になって多くのチームが導入してレースに大きな影響を与えますが、この頃はまだまだ未知の部分が多かったようです。
信頼性が低い、コンピューターの能力不足、エンジニアが使いこなせない、うまく動いたところでタイヤへの負担が低すぎて発熱不足にグリップ不足、といった諸問題を抱えてロータスは悪戦苦闘し、そのポテンシャルを十分に発揮できません。
そのため実際は全戦アクティブサスではなかったのでは?と言われるくらいですが、それでも天才アイルトン・セナによってモナコGPとアメリカGPでは優勝したほか2位4回に3位2回、サンマリノGPではウィリアムズの2台を押しのけポールポジション。
日本人ルーキーの中嶋も、4位を最高に6位までの入賞4回と健闘し、成績上はウィリアムズに次ぐセカンドチームでしたが、十分な実力を発揮したのです。
特に中嶋が4位に入ったイギリスGPではセナも3位、そして1-2位はウィリアムズの2台でしたから、ホンダF1史上初の「ホンダエンジン1-2-3-4フィニッシュ」を成し遂げるという、素晴らしい結果を残しました。
ただしこの頃からロータスは慢性的な資金不足で、翌1988年もマクラーレンに移籍したセナに代わりウィリアムズからネルソン・ピケが加入、引き続きホンダエンジンを積んだロータス100Tで戦うも十分な結果が残せず、その年でロータス ホンダは最後になりました。
※この記事内で使用している画像の著作者情報は、公開日時点のものです。
文・兵藤 忠彦/提供元・MOBY
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