イングランドでは、カール五世やフランソワ一世の時代のヘンリー八世が、カール五世の叔母(フェルナンド王とイザベル女王の娘)であるキャサリン王妃が王子を産まないので離婚し、それを認めないローマ教会と絶縁した。
その娘が、エリザベス女王である。対外政策では、オランダの反乱を支持しましたが、これも含め大陸のプロテスタントへの援助は控えめでした。
一方、スペインの新大陸との貿易独占に海賊行為を容認し。1588年にスペインの無敵艦隊に勝利し、1600年に東インド会社を創設、ローリーによるバージニア植民地への進出を図るなど、女王がイニシアティブを取ったわけではないのですが、新しい動きにそれなりに手を貸しました。
全般的に意外なほど安全運転でした。「私ほど臣下を愛する国王はいない、何者も私の愛と比べるべくもない。私の前にある宝石ほど価値のある宝石はない。それは貴方達の愛だ」という彼女の言葉のとおり、彼女が結婚もせず、イギリスという国を夫としたといってよいほどだったことが、国民から信頼を
この時代は、オランダが事実上の独立を手にして世界へ発展していった時代である。オランダ独立戦争を指揮し、総督となった実質上の初代君主は、オラニエ公ウィレム一世(在位1572~1584年)と呼ばれる。
ウィレム一世は、皇帝カール五世に側近として仕え、ネーデルラント軍の副司令官となり、痛風で引退するカール五世がブリュッセルで行ったブルゴーニュ公としての退位式典では病身のカールの介添え役までしました。しかし、スペインは、反乱に与しているとはいえない地元の諸侯にまで責任を問い、領地を没収したので、反乱側からホラント州とゼーラント州の総督に推されて受け、ユトレヒト同盟の盟主となった。
戦いは、フランスのユグノーと合流したり、「海乞食(ワーテルヘーゼン)」という海賊を使って沿岸を荒らした。1581年には、連邦議会でフェリペ二世の統治権を否定し、これを普通には「オランダ独立宣言」という。
イワン雷帝のもとでユーラシアの大国としての地位を固めたロシアだが、その発展は遅れた。ムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドノフ(在位)1598~1605)」で描かれたようなおどろおどろしい時代で、ポーランドの侵略に悩まされていた。
モンゴルを意味する名のムガール帝国は、16世紀にチムールの子孫が建国し、全盛期を迎えたのは、3代目のアクバル(1556~1605)のときである。若いころはペルシャに亡命していたこともあって国際感覚豊かで、ペルシア人、ウズベク人、インドのラージプト人などをうまく使い、北はアフガニスタン、東はベンガル、南はデカン高原の手前までを版図に入れた。また、税金の金納を勧めたので、経済はおおいに活況を呈した。
異教徒に課せられていたジズヤ(人頭税)を廃止するなどし、アクバル自身を教祖とする統合新宗教の樹立を夢見たという。有名な、タージマハールは、五代目のシャー・ジャハーンが、先立った王妃を悼んで墓所として建設した。