世界と日本は江戸時代の300年近く、鎖国という不幸な隔離状態にあったが、それでも、分野によっては新しい時代の息吹が間接的に伝わってきたし、関ヶ原の戦いのころは日本は、世界最先進国のひとつだったのだから、同じスタート地点にたって独自の発展をしたとしても、共通の進歩もないではなかった。別々に育った兄弟みたいなものだ。

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まして、それまでの時代にあって、古代から常に直接の交流はなくとも、世界は互いに影響しあっていた。

まして、南蛮人がやってきた1543年から鎖国が完成した1636年までは、大航海時代の最盛期で、密接な交流が存在した。

だが、日本人は、その時代のヨーロッパなどがどういう時代で誰が活躍していたか、あまり知らない。

そこで、『民族と国家の5000年史~文明の盛衰と戦略的思考がわかる』(扶桑社)から、信長・秀吉・家康の同時代のヨーロッパなどの様子を少し抜き出して見よう。

*信長・秀吉・家康の時代については、「令和太閤記・寧々の戦国日記」(ワニブックス)参照

彼らの一世代前のヨーロッパは宗教改革の時代で、神聖ローマ帝国皇帝とスペイン王はカール五世(カルロス一世)が兼ねて、フランスではレオナルドダビンチを保護したフランソワ一世、イギリスはヘンリー八世の時代だった。

そして、信長らの同世代は、スペインはフェリペ二世(在位:1556~1598)、エリザベス一世(在位1558~1603)、アンリ四世(1584~1610)の時代だった。ドイツはルドルフ二世の時代だが、これは暗愚だった。

フェリペ二世(在位1556~98年)は、柔軟だった父と違い、カトリック擁護に徹し、それがゆえに成果を上げ、また、大失敗もした。レパントの海戦では無敵艦隊がオスマン帝国海軍に大勝利を収め、地中海の制海権をキリスト教側に取り戻した。しかし、海賊上がりのドレークが率いるイギリス海軍に敗れて、海軍王国の地位を渡しした。

フィリピンを領有化し、天正遣欧使節を迎えましたが、フランドルではプロテスタント諸侯を抑圧しすぎて、反乱を起こされ、現在のオランダの領域が独立した。峻厳で武断派であるところは信長に通じるところがあるが、信長とは反対に保守派の権化だった。

フランスは、ユグノー戦争という宗教戦争に見舞われ、サンバルテルミーの虐殺といった不幸もあった。しかし、アンリ三世が暗殺されてバロワ家が断絶したことにより、ユグノー教徒だったブルボン家のナバール王がアンリ四世として即位し、自身はカトリックに改宗するが、プロテスタントの信仰も認めるという妥協が成立し安定し、ブルボン王朝の全盛期の基礎が固められた(ナントの勅令)。明るく好色家で、フランス人にとても愛されている王さまで、まさにフランスの豊臣秀吉だ。